「暴力の連鎖 しつけと愛情 両立は無理」に反論する。
(評論家芹沢俊介氏・読売新聞2000年3月31日付夕刊)
2000年5月4日

「虐待にいたらない子叩きと虐待にいたる子叩きのあいだに境界線を引くことはむずかしい」という調査・研究があるように、しつけが虐待死の場合のような暴力に至ることは止められないので問題だと言う。
たしかに、虐待にいたらない子叩きと虐待にいたる子叩きのあいだに客観的な境界線を引くことは難しい。しかし、親は自らのしつけを後から顧みて、そのどちらであったかを判断して反省することができる。その目的と態様、効果が真に教育的なものだったか考えることはできる。
また、難しいといっても、しつけとして許される子叩きの態様を客観的に限定して、それ以外の方法での子叩きは許されない虐待だと決めつけることもできる。
主観的にも客観的にも科学的な反省の方法を確立することで虐待の定義を明らかにし、虐待に至る前に親自らが反省を行うとともに周囲や社会が警告を発し、虐待に至った場合は直ちに公的な介入が行われるようになる。
しつけとしての子叩きを白眼視して正当な地位を与えず、科学的教育的な位置づけを怠ることが、虐待に力を与えているのだ。
叩くことにより親子関係が「損なわれる場合もあれば損なわれない場合もあるということを言っておきたいだけだ。」で済ますのではなく、反省の方法を確立し啓蒙活動を行うべきなのだ。
「愛情とは子どもの存在をまるごとうけとめることだ」という。
確かに、嬰児、幼児期にはまるごとうけとめてやることが重要である。
しかし、他人や社会が子どもをまるごとうけとめることは期待できない。
親でさえ、まるごとうけとめつづければ、子どもの我がままによる復讐を受ける。
また、学校でのしつけに全てをまかせることはできない。親が一対一で行っても難しいことを知育の重責を多人数に対して担う教師に期待することは無理である。しつけは子どもをまるごと受け止めたいという愛情を持つ親が行うべき責務である。




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