夫婦の協力

2000年10月4日
2006年12月1日改訂


女性の自立を主張する側は
夫婦別姓が良いという。
その方が気持ち良い女性もいるだろう。
しかし、これは結婚制度を維持するかどうかの問題である。
確かに、結婚している夫婦の現在に同姓による幸福の痕跡を
明確に指摘することは難しい。
しかし、結婚したときに夫と妻のどちらの姓にするか考えることは
たいていの場合、明らかに夫婦の絆を強くする作用を持つ。
フェミニズムの陣営が家庭破壊の扇動をしている現在、
夫婦の絆を弱める制度を導入することは結婚制度、家庭の崩壊につながる。
フェミニズムが女性の感性に従うとして唱道していることは何か。
原理・原則を崩して自分の気持ち良いようにしようと言う動きにすぎない。
原理・原則を崩した後に残るのは何か。
人間の低次の気持ち良さを追求し、精神の光のかけらもない、
姦淫と性的放縦の蔓延する世界である。
彼女たちは自分の気持ちの良い世界を作ろうとして違憲の法律を押し通した。
それが男女共同参画社会基本法である。
この法律は明らかに結果の平等を認めてそれを推進しようとしている。
男女平等を憲法は唱っていると反論するかもしれない。
しかし、その平等も憲法の大原則である機会均等にしたがい、
結果の平等を認めるものではない。
事実的差異に基づく区別を憲法は認めているというのが、
憲法の正統的解釈である。
そして、今まで男女は政治権力を共同して担っていなかったのであろうか。
世界を支配したローマ人は「自分たちを支配するのは妻たちだ」と言った。
ローマの男性は原理・原則を維持し、
女性は夫を通じて原理・原則を貫くと
過酷になることを防止する役割を果たしたのだ。
原理・原則をすべて崩した後に残るのは腐敗・堕落した社会だ。
特にアングロ・サクソン人などは、
性的自由・性的放縦を進歩だと勘違いしているようだが、
それは歴史上何度も生じた道徳的堕落の再現にすぎない。
最近、またしても不倫の恋を宣伝する動きがある。
不倫の恋が価値があるとしても、
その不倫の恋が存在し得るのは倫理が存在するからだ。
真に価値がある不倫の恋はしっかりとした倫理が存在するのにどうしても
燃え上がってしまった恋のことだ。
倫理が存在しなければ、不・倫理も存在しない。
従って、不倫の恋を大々的に宣伝することは
価値ある不倫の恋の存在を抹消しようと言う動きなのだ。
従って、不倫の恋の宣伝は価値ある不倫の恋を推進するのではなく、
倫理を破壊して姦淫と性的放縦の支配する社会を作ろうとする動きなのだ。
政治権力を男女で半分こするなどという話は
事実上、男性を支配している女性にすべてを任せるのと変わりない気違いじみた話だ。
すべてを女性の気持ち良いようにして、
原理・原則を担ってきた男性には思いやりのかけらも無い話なのだ。
素敵な男がいないという彼女たちの声が雑誌に載る。
男らしさは果たして素敵な男と無関係なのだろうか。
男らしさを否定する女性たちの中で、素敵な男が続々と生まれるのだろうか。
彼女たちは母親ではなく、女性として生きたいという。
それなら、なぜ、女性よりも母性を意識させる出産を夫に見せたがるのか。
彼女たちは性教育も推進してきた。
その成果が、若者に蔓延する性感染症である。
私は新経済システムの確立を唱えている。 
この制度は男女の幸福にも影響を与える。
夫婦の不幸の多くは自分の好きだという感情に従わずに金や地位や名誉、評判、計算に従い、結婚することから起こる。
新経済システムにより個人の経済的基礎が確立されれば、
そんなことに左右されずに、自分の感情に忠実になれる。
経済的基礎の保障の上に、金や地位や名誉を夫婦の協力で築きあげることが容易になる。



「救世国民同盟の主張」へ戻る

「トップページ」へ戻る