安土城・信長の夢

2001年2月18日

安土城図
大阪城天守閣所蔵,安土城図     Photo by ブレイズマン    From Wikimedia project

安土城・信長の夢
2月17日(土曜)午後9時からのNHKスペシャル「信長の夢・安土城発掘」を見た。実につまらなく下らない解釈をしていた。
天主閣脇の本丸御殿は、天皇の住まいだった清涼殿によく似ていたので、天皇専用の御殿だというのだ。
そして、大手門から続く、大手通りは、他の城の曲がりくねった狭い道と違い、とても広く真っすぐ続くので、
天皇を迎えるための専用道だというのだ。
おまけに、大手門の近くには天皇の馬をつなぐための大きな馬屋まであったと言う。
ある他人しか使えない大きな御殿と道とを抱えて、何年も信長が我慢していたというのか。
清涼殿に似た住まいに住むのは信長にこそ相応しい。
天主閣と本丸御殿とも信長が使用したからこそ、回廊でつながっていたのだ。
また、天皇の御殿なら、わざわざ東西裏返しの構造にする必要など無い。
とても広く真っすぐ続く大手通りこそ、信長の権威と権力を示すのに相応しい。
革命的な信長と安土城だったからこそ、滅ぼされたのだ。


安土城大手道 (C)Maakun  GNU Free Documentation License From Wikimedia project

「織豊政権と江戸幕府」を読んで
2002年4月4日追加

「織豊政権と江戸幕府」日本の歴史15巻/池上裕子著/講談社刊を読みました。
130p「信長が天正九年天皇の譲位を求めたのは、新天皇を自分の居所より下段にある本丸御殿に迎えるためであろう。」
121p「天皇を迎える御幸の間のある本丸御殿をそれよりも下段に作ったのも重要である。
戦国大名も天皇・将軍も越える異質の権力であることを印象づける空間創造をねらったのである。」
という点には疑問を持ちました。

☆私はNHKの番組「安土城・信長の夢発掘」に対して下記の様な意見を持っています。

☆私は信長は天皇の権威を忌々しいと思って否定しようとしていたとする立場です。
著者も類似した立場に立つようですが、果たして、信長が天皇を自分の城に迎えようとするでしょうか。
天守閣の居住性は低く、信長は天守閣の使用だけで満足したでしょうか。
本丸御殿も使用したでしょう。
天皇を本丸御殿に迎えたとしても天皇が本丸にいて、信長が城下にいれば、天皇の方が上にいるでしょう。
また、京都の御所の方が、山城の安土よりも低く、
わざわざ天皇を本丸御殿に持ち上げる必要はないでしょう。
そして、天皇に譲位を求めたことに対しては他の研究者が立派な理由を挙げています。
また、天皇を本丸御殿に迎えて一体化する必要が信長にあったでしょうか。
朝廷の官職体系を拒否し、自ら神たらんとした信長が天皇の権威と一体化して利用しようとするでしょうか。
武田氏の滅亡後は残された大戦国大名、北条氏も信長の軍事的威力に怯え、
毛利氏に対しては秀吉による攻略が進み、
本能寺の変前には自ら乗り込んで壊滅させようとしたところでした。
天皇の権威を利用する段階は過ぎていました。
神たらんとする信長というお立場をとるのなら、本丸御殿に天皇を迎えるというのは
いささか中途半端な立場ではないでしょうか。


「本能寺の変の黒幕」も参考にしてください。




「救世国民同盟の主張」へ戻る

「トップページ」へ戻る