本能寺の変の黒幕
2002年4月4日

「謎とき本能寺の変」と「本能寺の変の黒幕」という本能寺の変に関する記述をまとめて整理した「本能寺の変について」が書籍「哲学の理想」に掲載されています。

2011年1月5日


愛知県豊田市長興寺蔵 紙本著色織田信長像
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足利義昭が黒幕だという説。
室町幕府の権威は地に落ちていました。
謀反人と組めば、どうなるか義昭もよく承知していたでしょう。
光秀もいまさら足利将軍をかつがないでしょう。
同僚の部将、秀吉や家康が黒幕だという説。
天下が治まろうとした時点で事実上の天下の主であり
(家康は正確には同盟者ですが、事実上)
臣下として仕える主信長を殺せばどのような運命が待ち受けるか
重々承知していたでしょう。
光秀を動かせるような権威でもありません。
利で誘ったとしても主殺しの汚名を被ってもよいとする利益は天下以外になく、
秀吉や家康が天下を与えるわけはないでしょう。
また、秀吉が黒幕だとしたら、山崎で秀吉と戦う光秀はそのことを暴露したでしょう。
また、家康は本能寺の変の際に苦労をして本国へ逃げ帰り、
天下は秀吉のものとなりました。
秀吉や家康が単に唆したというなら、
それ光秀単独説になります。
光秀は単独で信長殺しを実行したでしょうか。
臣下として仕える主信長を殺せばどのような運命が待ち受けるか
重々承知していたでしょう。
それでも、信長を殺したいほど憎んでいたのでしょうか。
いろいろなエピソードがあるようですが、
多数の家臣を抱える光秀の立場からして、憎しみだけで立つとは考えられません。
そこには成算があったはずです。
光秀の成算はどのへんにあったのか。
1.細川や筒井が与力してくれて武力で勝利できる計算。
2.信長軍団の各方面軍が前線で動けないうちに畿内近国を押さえられるという計算。
3.そして、朝廷の守護者として朝廷の権威を利用できるという計算。
などがあったからでしょう。
1.2.の計算は歴史が証明したように甘いものでしたが、
仮に成功したとしましょう。
成功しても、主殺しの汚名は残り、
謀反人光秀を打倒して信長の後継者として天下を握ろうとする者が後を絶たず、
結局一時的な成功に終わるのが目に見えています。
3.の計算、すなわち、朝廷が支持してくれてその権威を利用できてこそ、
永続的な成算が立つでしょう。
そして、朝廷が支持してくれるのなら、光秀の動機も強まるでしょう。
光秀は教養人であり、当時の権威の大元がどこにあるのか承知していたはずです。
では、光秀は朝廷と接触せず、
朝廷が支持してくれるという見込みだけで、
本能寺の変を起こしたのでしょうか。
天下が治まろうとした時点で事実上の天下の主であり
臣下として仕える主信長を殺した者に
どんな運命が待ち受ける可能性が大きいか、
朝廷も知っていると光秀は考えるでしょう。
光秀は朝廷も支持をためらうと考えるでしょう。
朝廷からの誘いがあっからこそ、
光秀は立ったと考えるべきです。
しかし、それは無条件のものではなかったでしょう。
謀反人を支持するという危険を冒す以上、
畿内近国を押さえる程度の実力を示せば、朝廷は公に支持を
表明するというものだったでしょう。
しかし、秀吉の機敏な動きの前にそれはできなかった。
光秀は朝廷を崇敬する教養人だったので、
死んでも朝廷の関与を明かさなかったのです。
(朝廷が公に支持を表明したかどうが確認できなかったので、
上のように論じています。公に支持を表明していたのなら、
朝廷は武家の論理を甘く見ていたことになります。)
朝廷は謀反に参画するという危ない橋を渡った訳ですが、
朝廷にそのようなことをする動機があったのか。
大ありです。
総見寺に見られるように信長はこの世の神になろうとしていた。
天皇制には天皇を現人神とする思想があります。
本能寺の変の時点で、
朝廷の権威を利用せずに、天下布武を実現できる位置に信長は立っていた。
にもかかわらず、信長は征夷大将軍、太政大臣、関白、いずれでもいいという
朝廷の官位の申し込みを断っていた。
信長は朝廷の存在しない国家構想を抱いていると考えざるをえなかった。
足利義昭を奉じて上洛したが、室町幕府の副将軍職を拒否し、
結局、足利義昭を追放して室町幕府に引導を渡したことが想起されよう。
また、信長が安土城で
清涼殿に似た本丸御殿に住んでいることも許しがたかったでしょう。
そして、光秀があくまで朝廷を擁護し、
失敗しても朝廷の関与を明かさないという計算があったのでしょう。
間接的な証拠として京に入った光秀を朝廷は歓迎しています。





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