私がアメリカを懸念する理由
2002年11月10日

端的に言えばアメリカが自分の好む程度の自由と平等を押しつけてくるからだ。
完全な自由と平等に耐えられる人間は居ない。
人間がその生存の基盤とする社会や文化、家族、友情や愛などの絆は
ある程度の規制と規範を前提として初めて成り立つ。
規制や規範を全部取っ払ってしまえばそれらは崩壊する。
また、自由や平等を原理的に貫徹しようとする方向に社会が向かえば
その社会は悲惨なものになる。
社会主義が貧富の差の平等を貫徹しようとして収容所列島を生み出したように。
アメリカで電力の自由化が大停電をもたらしたように。
完全に自由な性交と完全な男女平等が血縁による家族を崩壊させたように。
だから、アメリカが主張する自由と平等も結局はアメリカ文化の基準に照らしての
自由と平等に過ぎない。
自分たちが心地よい程度の自由と平等に過ぎない。
他の国にとっては不快であることが多く、その国民を不幸にする。
しかし、自分たちが自由と平等の旗頭として任じているが故に、
自由の実験国家・人工国家であるが故に
原理的貫徹の方向に向かうことが容易であるが故に、
自分たちの好む自由と平等を他国に押しつけ、他国の文化を破壊し社会を混乱させている。
しかもその自由と平等の程度は自分たちの歴史と変化に応じて変わって行き
その変化を世界に押しつけるのだ。
平等についての恣意性の実例。
アメリカを母国とするフェミニズムは男女の完全平等を押しつける。
しかし、アメリカは貧富の差の平等には目をつむり、絶対に共産主義を認めない。
自由と平等に照らしてその名において改善を命じなければならないことが
あり得ないと言っているのではない。
改善を命じなければならないのは明らかに不合理で非人道的な文化や社会である。
人道に反せず、合理的根拠を有する文化や社会をアメリカの規範に照らして
アメリカと同じようにしようとするのは間違っている。
日本の文化や社会は我々が弁護しているように合理的根拠を有し
なんら人道に反するものではない、
アメリカは日本の文化・社会・経済をアメリカと同じようにしようとした。
自由民権運動と大正デモクラシーの伝統の上に
占領期にアメリカ自身の手による改革が加わって
日本とアメリカは基本的には価値観と制度を共有するに至っていたのに
完全にアメリカと同じでなければならないと言う主張がある。
明らかに合理的根拠を有し人道に適合する国に介入するなら、
自由の名において他国と他国民の自由を侵害していると言われても仕方ないだろう。
アメリカが主張する自由と平等の背景に立派な哲学的体系がある訳ではない。
共産主義のようなイデオロギー的整合性もない。
その時々のアメリカ人が有する価値基準に基づいた恣意的なものだ。
しかもその価値基準は原理的に自由を貫徹しようと努力する結果、
人間としての幸福を無視したものになりがちである。
人間として幸福であるためには自由と平等の貫徹にも限度が生じる。
アメリカ人は自らが自由の旗頭であろうとし、
自由の旗頭であるという満足を得るために、
その限度を無視した自由と平等を自らに課しているともいえる。
だから、アメリカ人は自分では気づいていないが知らず知らずのうちに
世界で最も不幸な人種になろうとしている。




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