ローマ帝国衰亡の原因
Cause of Fall of Roman Empire
2002年12月27日


「ローマ帝国衰亡の原因」と「軍人皇帝時代・ローマ帝国三世紀の危機」とを合わせてまとめるとともに、新たに市民精神の観点から考察し、ディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝に関する記述を追加した「ローマ帝国衰亡の原因・カルタゴの復讐」が書籍「哲学の理想」に掲載されています。

2011年1月5日
マルクス・アウレリウス帝の騎馬像
マルクス・アウレリウス帝の騎馬像
statue of Marco Aurelio on a horse
on the Capitoline Hill in Rome.
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塩野七生氏の「ローマ人の物語」第11巻を大変面白く読みました。
しかし、広告で明示されているように、
マルクス・アウレリウス帝に
「ローマによる平和」の終わりの始まりを見る論調には疑問を感じました。
その論拠はマルクス・アウレリウス帝が即位前にイタリア本国を出ていないこと、
マルクス・アウレリウス帝の時代に蛮族のドミノ倒しと言う現象が初めて
ローマを襲ったことにあるようです。
確かに、現場に触れた方が良い情報が得られるでしょう。
しかし、現場から距離を置いた方が冷静な判断ができるという効用があり、
情報を総合・分析するには現場から距離を置いた方が良いでしょう。
そして、中央にいても、命令とその実行過程と結果をある程度正確な情報で知ることができれば、
自分の行為がどのような結果を生むかということを経験でき、正確な情報を蓄積できます。
完全に現場の経験と代替することはもちろんできませんが、
ある程度なら可能と考えます。
確かに、現場に顔を見せることを含めて、現場の把握は重要ですが、
マルクス帝は即位前に属州に行かなかった。
しかし、その責任は大部分が現場を経験させなかった義父であり、
師であり、上司である皇帝ピウスにあります。
マルクス・アウレリウス帝は即位後にドナウ防衛線という現場に張り付きましたし、
マルクス・アウレリウス帝以後のローマ人が即位前のマルクス・アウレリウス帝を
見習って皆、現場を軽視したという訳でもないでしょう。
もし、マルクス帝に責任があるとすれば、
皇帝に逆らって自分の意思で属州に赴かなかった点ですが、
「学問好き。誠実。強い責任感。教えられたことを抵抗なく受け入れる素直さ。優等生。家庭生活を大切に思う、良き家庭人。皇帝になる身である、人々の模範であらねばならないという強い自覚。自分を導いてくれた人々に対する、暖かく深い敬愛の念。」だから、ピウス帝に逆らって属州に行かなかったことが非難に値するでしょうか。
そして、そのピウス帝も
ハドリアヌス帝により帝国の防備は万全となっていると考えたのでしょう。
しかも、現場を歩いたハドリアヌス帝に対する元老院の評判は散々だったのです。
そして事実、平穏に時が過ぎていたのです。
ですから、中央から統治したことが、
それほど大きな非難に値するとは思えません。
そして元老院がハドリアヌス帝を理解しなかったのは平和な時代が続いていたからです。
さらに、ピウス帝によって示されたことは、全くの平穏時には、
それもハドリアヌス帝が行ったように帝国の防備が万全化されていたならば、
本国にいても帝国の統治は十分可能ということでしょう。
塩野氏は「悪帝ネロの時代でも強烈だったローマ人の共同体意識が、
賢帝マルクスの時代に衰え始めるとは皮肉だった」と
帝国の「アパシー」(無気力)について述べますが、
平和が続けば「アパシー」が勢いを得るのは歴史の傾向というものです。
五賢帝時代の終わりに位置するマルクスの時代に「アパシー」が現れていてもそれは、
マルクスの責任ではありません。
また、マルクス帝にアパシーを増長した行為はないでしょう。
確かに、マルクス・アウレリウス帝は軍事的天才ではなく、
将来おこる蛮族のドミノ倒し現象に対する万全の対策を打ち立てることもできなかった。
しかし、継戦を遺言したようにドナウ防衛線でとても有利に戦いを進めていた。
自分に与えられた課題は誠実に果たしたのであり、
将来のドミノ倒しまでその責任とするのは酷というものでしょう。
それに、
当時の蛮族のドミノ倒しと言う現象自体には
マルクス・アウレリウス帝には責任が全くありません。
哲学者で外国に行ったことのない人物を
排除するためにこのような物言いをしているのではと疑います。
そして、蛮族のドミノ倒し現象の万全の解決策とは
ゲルマン人大部族の重要部分をローマ化・文明化して、
ローマ帝国防衛の先兵とすることでしょう。
それにはゲルマニア本土の征服が必要です。
しかし、それはアウグストゥスやティベリウスでさえ、完遂しなかったことなのです。
蛮族のドミノ化を予測して対処しなかったことをして責任というなら、
後世の人は歴史を知っているので、「あれが〜の徴候だった」と簡単に言えますが、
現実にその時代に生きている人には最初の徴候を知ることは極めて難しいことなのです。
そして、軍事的才能が少ないことをもって責任というなら、マルクス帝以下の皇帝はマルクス以前にも多数いました。
また、マルクスの軍事的才能故に帝国の没落にとって決定的な事態が生じた史実もありません。

カラカラ帝胸像
カラカラ帝胸像(ルーヴル美術館所蔵)
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そして、私は
「ローマによる平和」の終わりをもたらしたのは
蛮族のドミノ倒しと言う外的現象に加えて、
内的な要因として「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が
少なくなっていったことが決定的な原因だと考えています。
10巻では「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」がローマのインフラを支える姿が描かれていました。
ローマのような大帝国にはこうした人々が不可欠なのです。
そして、なぜ、「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が
減少していったかと言えば、
212年にカラカラ帝がローマ市民権を帝国の全住民に与えたことと、
キリスト教の普及が大きかったことでしょう。
ローマ市民権の全住民への開放について。
ローマ市民権が軍団兵になる資格などと結びついていたことから分かるように、
「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」にとって、
属州民ではないローマ市民であることは誇りでした。
属州民である「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」にとっては、
ローマ市民権を得ることは目標でした。
その誇りであり、目標であるものをカラカラ帝は奪ったのです。
そして、市民権を得るのに帝国の住民でありさえすればよいというのなら、
蛮族は帝国内に移住さえすれば
ローマ市民になって文明の恩恵と良い土地に住む恩恵を受けられると考えて、
蛮族の移動の誘因になります。
また、日々の暮らしに追われる属州民にとっては負担が少ない属州民という地位が
認められるから、
ローマの支配を甘受するという面があったでしょう。
ローマ市民となって負担が増えれば、不満を蓄積していくことになるでしょう。
キリスト教は、
初期は特にですが、
公共善の維持よりも隣人愛に重きを置きました。
国全体や遠くの人々のことも考えて
「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」よりも
隣人愛を実践する人が尊ばれるのです。
そして、公共善について考えるよりも、
神学論争に熱中する人々が多くなるのです。


11巻では第四部でセヴェルス帝について述べて最後に、
「そして、この後のローマ帝国は、歴史家たちの言う三世紀の危機に突入する。
魚は頭から腐る、と言われるが、ローマ帝国も頭から先に腐って行くのだった」
と述べて締めくくっています。
しかし、マルクス・アウレリウス帝が腐臭をわずかでも持っていたとは考えられません。
息子への世襲も内乱を避けるためでした。
また、「死ねば誰でも同じだが、死ぬまでは同じではない、という矜持」を有して
皇帝として誠実に国務に取り組んでいたと考えられます。
マルクス・アウレリウス帝に「ローマによる平和」の終わりの始まりを見ることはできないと考えます。
さらに言えば、三世紀の危機にもマルクス・アウレリウス帝は責任が無く、
マルクス・アウレリウス帝後の皇帝の責任でしょう。
特に、セヴェルス帝がローマ帝国の軍事政権化への舵を大きく切ったのが大きかったのではないでしょうか。

「軍人皇帝時代・ローマ帝国三世紀の危機」も参考にしてください。

コンスタンティヌス1世
コンスタンティヌス1世
Statue de Constantin Ier,
Musee du Capitole, Rome
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そして、三世紀の危機を経て、
ローマ市民権の喪失、キリスト教の普及に対する一応の対策が為されました。
それがディオクレティアヌス帝による帝国の分割統治であり、
コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認とテオドシウス帝による国教化です。
分割統治はローマ市民権の喪失によって統治しにくくなった帝国を
より統治しやすくするための対策となります。
しかし、分治者による内戦を誘発する傾向が大きいのです。
キリスト教の国教化はキリス教を公共善に高める対策です。
その後、決定的な蛮族のドミノ倒し現象が起こります。
蛮族のドミノ倒しは次のようなことが原因と考えられます。
まず、ローマ帝国の近くの蛮族が文明の恩恵を受けて、精神の猛々しさが薄れます。
また、ローマ帝国の軍事力により直接弱体化されます。
しかし、遠くの蛮族は、精神の猛々しさに対する文明の影響をあまり受けません。
なのに、文明の進んだ軍事能力は進んで学ぶ傾向にあります。
だから、遠くの蛮族が文明に引かれるなどして進攻した場合、
近くの蛮族は遠くの蛮族に立ち向かえず、必死にローマ帝国に逃げこもうとします。
そこに決定的なドミノ倒しの動因が現れました。
フン族です。
このフン族には遠くの蛮族も敵することができず、
帝国に向けて一斉に移動を開始します。
それに対して一応の対策しか受けていない帝国は大変な困難に直面します。
では、民族の大移動が起こったとき、なぜ、東帝国は生き延び、西帝国は滅んだのか。
民族大移動に対する軍事政策の巧拙もあったのでしょうが、
大きかったのは、次の二つではないでしょうか。
まず、危機に際しては権力の独裁化が必要なことがあります。
東帝国は危機に際しての皇帝法王主義で、
自帝国をまとめ上げて対処することができました。
これはオリエントという専制主義に馴染み深い風土にあったからです。
これに対し、西帝国は、ラテン世界では、皇帝法王主義による対応はできませんでした。
中世以後も皇帝と法王は別人です。
独立と自由を尊ぶ気風などがそうさせたのでしょう。
ですから、西方世界では、キリスト教化、すなわち法王の権威を受け入れることは、
皇帝の支配を受け入れることではありませんでした。
次に、西帝国の中心イタリアが、ローマ市というローマ帝国の中心があったが故に、
アパシーの進行がより深刻だったと考えられる点です。
そして、幾多の帝国が興亡を繰り返したオリエントよりもずっと、
ローマという空前の大帝国が没落する機運は深刻に受け止められたでしょう。
さらに東帝国がコンスタンティノープルという鉄壁の大首都を持ち得たこと。
以上に加えて、西帝国がゲルマニア本土に近く、
ゲルマン人にも馴染み深い土地であったことなどがあげられます。
それでも、一旦はフン族という大脅威を前にして、ゲルマン民族と協力して、カタラウヌムで勝利しました。
しかし、フン族の脅威が去った後は、分解作用がどうしようもなくなったということです。

塩野氏がローマ帝国没落の原因に11巻に上げられたこと以外に、
どのようなことを考えているのかは分かりません。
塩野氏の主張は要するに
自己の支持するイデオロギーのために
五賢帝時代の最後にマルクス帝が位置することを利用して帝国衰亡の原因を押しつけようというものです。
フェミニズムに与し、
あまつさえ哲学者皇帝マルクス・アウレリウスを貶めようとした人物に対して、
私もローマ帝国衰亡の原因を解明する競争に一石を投じようとしてこれを述べた次第です。
これを書く前提としての知識の大きな部分を塩野氏の著作、
「ローマ人の物語」1巻から11巻によって得たことは述べておきます。

カルタゴの遺跡
カルタゴの遺跡  From Wikimedia project

以下は2003年1月20日追加。
セヴェルス帝によるイタリア人近衛軍団の解散と言い、
帝国の軍事政権化と言い、
共同皇帝を攻め滅ぼしたことと言い
(マルクス帝が自ら共同皇帝を立て共同皇帝を最後まで尊重したことが想起されます)、
セヴェルス帝の子、カラカラ帝によるローマ市民権の喪失と言い、
これらは帝国の非イタリア化ともいうべきものでしょうが、
その非イタリア化は
セヴェルス帝の出身地が北アフリカであったことから
カルタゴの復讐のように思えてならないのです。
カルタゴの種子がローマ帝国内に潜り込んで
ローマ帝国を変質させてしまったように思えてならないのです。



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