女帝斉明(皇極)の大陰謀
「天皇と日本の起源」(遠山美都男著、講談社現代新書)を読んで。
2003年3月19日

分かりにくかった飛鳥時代の歴史の推移の原因が明確に示されているとても良い本です。
「飛鳥を舞台にした歴史のなかで、斉明の存在感はわれわれの想像を絶するものがある。」
p285で著者はこう述べ斉明(皇極)天皇の歴史への関与を大きいものとして
様々な点からその姿を明らかにしていますが、一つ抜けている視点があります。
それは斉明天皇の我が子への愛です。
斉明天皇は実の子である中大兄皇子と大海人皇子に天皇の地位を与えようとして
自分の血を残そうとして活動したのではないかという点です。
古代史の大事件とされてきた645年の大化の改新も皇極が
国家改造プランを実行するために弟の軽皇子(大化の改新により即位し孝徳天皇)の
勢力を利用しただけではなく、実の子のために蘇我氏が支持する第一の皇位継承者
古人大兄皇子を蘇我氏もろとも排除する企てだったのではないでしょうか。
その際に中大兄皇子がクーデターの実力行使で名を挙げるという利益もありました。
そしてその前の事件も。夫である舒明天皇の死による妻の皇極の642年の即位は、
別格である亡き天皇の妻が即位しなければ、
皇位は推古天皇が舒明の次にと考えていた
山背大兄皇子に行ってしまうので即位したのでしょう。
そして643年、その山背大兄皇子を蘇我氏を使って滅ぼしますが、
今度は蘇我氏の支持する古人大兄皇子が第一の皇位継承者として浮上したので、
大化の改新で葬ったという訳です。
そして弟に難波宮で国家改造計画を実施させ、皇極は飛鳥で都づくりをしますが、
弟の改革が成果を上げたので不必要となり、
弟から実権を奪おうとしたので孝徳は落胆して死亡したのでしょう。
それに孝徳の后となった皇極の娘の間人皇女ではない女性に生ませた
有間皇子への孝徳の愛も問題だったのでしょう。
そして、孝徳の死後、中大兄皇子の即位ではなく、
655年皇極が重祚して斉明天皇となりますが、それは孝徳が天皇であったために
孝徳天皇の子が皇位継承者として浮上してきたので、
その皇位継承者としての可能性を奪うために復辟したのでしょう。
それを恨みに思った孝徳の子であって皇極の血を引かない有間皇子は
658年に暴発して処刑されます。
そして、斉明の子の地位は安泰となり、
斉明は自身の目指した帝国構造を完成されるために百済救援を行おうとする中、
661年筑紫で死にます。
その後、中大兄は天皇に668年に即位するまで長い間、称制を行いますが、
それは663年白村江での敗戦のため、
大きかった斉明の継承者としての資格に傷が付いたから称制が長期に及んだのでしょう。
そして、673年の壬申の乱でも斉明が建設した吉野宮と倭古京が大きな役割を果たします。
母は強しと言いますが、凄い女性ですね。
斉明は尼将軍政子に匹敵するか、それ以上の女性政治家でしょう。
斉明の陰謀の結果、現在の天皇がどの程度、
斉明の血を引いているかは歴史学者にお尋ねください。
最後に疑問点。
「日本」が日の下を意味し、
日の直下にあるという観念から世界の中心と言う意味を持ったとする点。
太陽は移動し、人間から見て太陽の下も移動します。
また、人間はいつでも日の光を受けるから日の下は動かないと言うなら、
それは世界のどこでも同じことです。
日の下から、確固たる中心という概念は生まれにくいでしょう。







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