「学校での携帯なぜ悪いのか」
2003年11月3日付け朝日新聞朝刊「声」投稿に対して
学校の目的は第一に勉学であり、
我々の社会が民主主義社会・法治社会である以上、
民主主義社会・法治社会のルールを守る人を育てることも目標である。
携帯は勉学の道具ではなく、交友の道具だ。
校内の情報交換に役立つとしても、
今まで携帯無しでもやれたように代替手段はあるのであり、
携帯の利用が勉学への集中を乱すと判断することも可能だ。
だから、携帯を持ってきていけないというのは、
基本的に言って小学生が玩具を持ってきてはいけないのと同じ理由だ。
君は、自分の責任で携帯を持ってくるのだから、良いのではないかという。
しかし、社会において各自の責任で勝手にルールを作り判断するなら、
民主主義社会・法治社会は混乱し、成り立たなくなるだろう。
確かに、携帯を持ってきてはいけないというルールは君たちが決めたのではない。
民主主義的正当性はあまりない。
しかし、大人の携帯を持ってきてはならないという判断は、
君たちより大きな経験と知識に裏打ちされている。
未成年たる君たちは原則として従わなければならない。
君たちは学校で他人から学ばねばならない立場にあるのだから。
それから、
確かに、「善」や「健全」は概念である。しかし、その概念は明確にすることができる。
私の「新しい幸福の原理」という論文は「善」の概念を明らかにしたものだ。
このように「健全」という概念も明確にすることが可能だ。
そして、そのように明確にされた概念に照らして、
善なる行為か否か判断することは可能なのである。
善なる意思か否か判断することも可能なのである。
そして、君の周りは善意が実現されたもので一杯のはずだ。
一冊の本をとっても、
自分の考えを明らかにして他者に役立てたいなどの善意が実現したものだ。
本が製本されて他者の手に入るように働いた労働者の善意が実現したものだ。