「謎とき本能寺の変」(藤田達生著、講談社現代新書)
2003年11月16日

「謎とき本能寺の変」と「本能寺の変の黒幕」という本能寺の変に関する記述をまとめて整理した「本能寺の変について」が書籍「哲学の理想」に掲載されています。

2011年1月5日


 著者が「光秀の謀反は、義昭からの働きかけによって起こったとしか考えられない」(p109)と述べるように、この本は本能寺の変について足利義昭黒幕説を採る。そして、光秀は苦境にありながらも、生命の危険にさらされていた訳ではなく、「謀反という最も危険な道」(p109)を選んだ理由として、p109で二つ上げる。
1.光秀の軍事力が不足していて、信長を急襲して政権を奪うことまでしかできないということ。
2.義昭の権威がなければ、信長殺しを正当化し自分の政権を正当化することはできないということ。
1.について。
 各方面軍が遠い前線に出払った状態にあり、光秀の軍団だけが中央にいる状態で畿内近国を制圧することは十分可能であった。また、朝廷の権威を利用できることになり、機敏に対応し勝利を重ねれば、軍勢を雪だるま式に膨らませることも可能であった。ただ、秀吉が非常に機敏に対応して誤算が生じたのである。そして、畿内が秀吉になびいている状態にあり、光秀は全兵力を投入できなかったにもかかわらず、山崎の合戦でかなりの兵力を使用できたのである。
2.について。
 義昭の権威は究極の権威ではない。当時、究極の権威は天皇にあった。足利幕府の権威の根拠は朝廷から与えられた征夷大将軍という官位にある。そして、当時は、織田信長がその武力で天下人として中央に君臨していた。足利義昭の権威は信長殺しを正当化し光秀の政権を正当化できるほど強いものではありえない。応仁の乱後、足利将軍は戦国大名が自分の天下取りに利用する対象になりさがっていた。将軍、足利義輝が将軍邸で公然と殺される事件まで起こった。織田信長の躍進後は、信長の天下取りを阻止するための反信長同盟の旗印として権威を持つ存在だった。しかし、1573年に足利幕府の滅亡とされる事件が起こり、京都を追放されてからは、その権威はさらに一層大幅に低下させざるをえなかった。究極の権威である天皇と朝廷が所在し、足利幕府が創立当初から存在し、文化・経済の中心でもあった京都に幕府を構えてこその将軍だからである。権威の低下していた足利将軍が京都を追放され信長が武力で中央を制圧したことで、足利幕府は滅亡したと、当時の人も自然と考えたことであろう。京都追放により、格段に足利義昭の権威は失墜したのである。
 これに対し、著者は毛利氏に庇護された足利義昭が「鞆幕府」(所在地、備後鞆の浦、現広島県福山市)というべきものを構成していたとされる。確かに、形式は整えられたかもしれない。しかし、京都を追放された義昭が幕府としての実質、武力と権威を与えることはできなかったと考えられる。事実、京都時代と比べると格段に関係者は少なかった。著者は鞆幕府の実質として、毛利氏の相続に関わったこと(p97)、独自の夫役を課したこと(p98)を上げる。これは信長が正式に征夷大将軍となっていないので、毛利氏が足利将軍を領内に迎えたことでもあるから、領内で昔からの形式を尊重したに過ぎない。同様に五山の公帖の認可(p98)も五山が昔からの形式を尊重したに過ぎない。信長が正式に征夷大将軍となれば、簡単に奪うことができたのである。東アジア外交も旧来の形式を外交に利用しただけである。
 そして、著者は鞆幕府の実質は柴田勝家に味方して、勝家が敗死することで、失われたという(p177)。しかし、味方が敗死することで実質が失われるなら、義昭の味方は何度敗死したことであろうか。p67の表「信長の戦争」で確認すると、朝倉義景、浅井長政、三好義継、松永久秀、武田勝頼などの敗死が上げられている。
 このように究極の権威でもなく、権威が著しく低下してもいた義昭が光秀を正当化しようとしても、光秀もろとも、天下人に対する謀反人とされた可能性が極めて高い。
 そして、義昭黒幕説には重大な疑問点がある。毛利氏は秀吉との講和を急ぎ、本能寺の変を知ったのは、秀吉との講和後だったという事実である。毛利氏を頼っていた義昭が黒幕なら、当然、義昭は本能寺の変のことを知っていて、毛利氏に本能寺の変のことを知らせていたはずである。にもかかわらず、毛利氏が本能寺の変を知ったのは講和後だという。毛利氏が知らなかったのは本能寺の変が起こったという事実であったとしても、本能寺の変が起こるであろうということは知っていなければならない。そして、本能寺の変が起こるであろうということを知っていたなら、少なくとも講和を急ぐ必要はないのである。
「光秀の謀反は、義昭からの働きかけによって起こったとしか考えられない」というが、当然、黒幕として検討されねばならないのが朝廷である。当時、朝廷は究極の権威であった。光秀の行為を正当化する権威としてこれ以上のものはない。そして、朝廷には動機がある。著者も信長の国家構想、安土城行幸(p118)、暦問題(p125)、三職推任問題(p126)に触れて朝廷の関与を認めた上での義昭黒幕説を採る。信長は自分が「国王であり、内裏(天皇)である」(p64)とも述べていた。
「そして重要なのは、信長が新しく作ろうとしている国家は、足利幕府体制や戦国大名の支配体制を継承するものではなく、それを根底から否定したものである。」(p66)と言う。足利幕府体制や戦国大名の支配体制の根底にあったのは朝廷による権威付けである。朝廷が窮状にあったことは間違いない。そして、本能寺の変により、秀吉と同じくらい、大きな利益を得たのが朝廷である。著者が「エピローグ」の「本能寺の変の影響」(p187)で述べているように、朝廷の地位が安泰になったのである。
 このように第一に黒幕として検討すべき朝廷を検討せずに、足利義昭を黒幕であると論証することに熱中することは「精神的怯懦」の系譜に属するのではないだろうか。
 以下、著者の義昭黒幕説の個々の論証を検討する。
 上杉氏の奉行人・河隅忠清の直江兼続に宛てた書状に「無二の御馳走申し上ぐべき由申し来たり候」とある点の解釈。著者は「無二の御馳走申し上ぐべき」対象が義昭だとする。しかし、天下人になろうとする光秀だとしても何らおかしくない。しかも、朝廷の承認を得ているなら、なおさらである。また、河隅忠清が光秀の企てに反対し、その尊大さを印象づけようとしたとも考えられる。
「須田満親に密使を送ったのはなぜか?」(p81)だが、反信長勢力と結びついていた人物と信長を倒そうという光秀が接点を持っても何ら不思議はない。
「委細(欠字)上意として、仰せださるべく候」(p111)として義昭に指揮権があると光秀が明言しているとする点。しかし、これは義昭の上洛について述べたものである。光秀は義昭が黒幕ではないとしても、義昭勢力を味方に付けるために義昭の上洛について言及することはあると考えられる。光秀は味方を欲していたのである。そして、義昭の上洛について確約したくないので、義昭の上洛を望まないので、上洛について言質を取られるのを恐れて、上洛については指揮権がないと言ったのではないか。
『惟任退治記』の記述について「惟任(光秀)公儀を奉じて」(p115)とある点。これは秀吉の周囲にとり、義昭黒幕説が都合が良かったことを示すにすぎない。仮に、光秀にそうだと見られる行動があったとしても、義昭が黒幕だと論理必然としてなるわけではなく、光秀が義昭の関与無しに足利幕府の権威を利用したとも考えられる。
 また、公儀を信長と解することもできる。「公儀を奉じて」は「二万余騎の人数を揃へ」だけにかかると解するのである。光秀は当初、信長を襲う意図を隠して軍勢を動かした。いわば信長の命を受けた形で軍勢を発したと言えるのである。信長を公儀とする用例が他に見られない点は、信長に対する反逆を公儀に対する反逆として許されざるものと印象づけるために、その光秀を討った秀吉の功を高めるために、『惟任退治記』は信長を公儀と呼んだと考えられるのである。
 光秀は四国渡海軍が渡海する前に、本能寺の変を起こす必要があったという点について(p129)。光秀が畿内近国を制圧するためには、四国渡海軍が畿内からいなくなってしまう方が都合が良いと言える。本能寺の変後、四国で立ち往生したであろう渡海軍には、長宗我部氏が対応できたと考えられる。四国渡海軍が渡海するのは六月二日の予定だった。そして、信長が西国へ向かうのは六月二日から四日の間だった。四国渡海軍が発してしまった後の方が都合が良かったが、それを確認してからでは、信長を西国へ逃す恐れがあった。光秀の日程は信長抹殺を第一にして、畿内近国を制圧できるような軍事的条件が得られる日を選んだと見るのが自然である。
 義昭の「信長を討ち果たしたので」という御内書の文言について(p155)。これは、自らの力で天下人信長を討ち果たしたので、自分が次の天下人だと主張する修辞に過ぎない。自分の力を誇示する修辞に過ぎない。
「政権担当者としての朝廷からの承認を得るために、六月七日まで勅使の到着を待った。結果論であるが、こうした時間の空費が光秀に裏目に出た。東上する秀吉の軍を防ぐために、すぐに摂津方面に軍を進めて諸大名を組織しなかったことが、山崎の敗戦につながったのである。」(p162-163)なぜ、光秀は貴重な時間を空費したか。朝廷の権威を利用できると楽観視していたのであろう。反逆者であるのに楽観視できたのは、朝廷から何らかの形で約束があったためと考えられる。秀吉の東上により朝廷は慎重になり、約束を反故にした。あせった光秀は、細川氏を何とかして味方につけようとして大盤振る舞いの手紙を書く。それが天正十年六月九日付けの光秀の自筆による覚え書きである。
 当時の朝廷は信長の態度に窮していた。そこで、教養人であり、信長に不満を持っていたと考えられる光秀を誘った。「当時の信長は、先に述べたように天皇権威の相対化に着手していた。光秀のような教養人には、それが耐え難い域に達しつつあったとみられる。」(p135) とあるように光秀にはこの誘いは魅力的だった。朝廷の危難を救った人物として歴史に残り得るからである。しかし、天下人である主君の殺害は重かった。武士が主君を乗り換えることができたといっても、やはり旧主を殺害して乗り換えることは問題なのである。光秀は主君の仇討ちの標的となって横死した。結果として光秀は朝廷を救ったが、朝廷を重んじる人々は誰もが朝廷の関与を隠した。
 朝廷が本能寺の変の黒幕である。その朝庭に明智光秀は協力した。明智光秀は、武家の論理では謀反人であることを認めざるを得ないが、天皇と朝廷に対する忠義の人だった。





「救世国民同盟の主張」へ戻る

「トップページ」へ戻る