情緒と論理は車の両輪

「国家の品格」( 藤原正彦著 新潮新書) を読んで。


2006年1月18日


本書の後半の情緒に関する主張は共感できるものが大部分だ。しかし、前半の論理に関する主張に対しては、言いたいことがある。著者は「長い論理」と「短い論理」と「論理の徹底」の問題を主張する。「長い論理」が「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理を言い、「短い論理」が短絡的論理を言い、「論理の徹底」が市場原理主義の論理の徹底を言うならば、問題は無い。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の論理はその正しさの確率が極めて低くなるのは、著者の言うとおりだからである。短絡的論理が、人々の情緒と思い込みに訴える危険なものだからである。市場原理主義が、金銭的計算的合理性に過ぎず、資本家が利益を得るための論理であり、全体としての人間の幸福を勘定に入れたものではないからである。

しかし、その論理に対する批判は、立派な理論家・思想家の長い論理一般に対しては必ずしも妥当するものではない。彼らは、長い論理を組み立てる。しかし、その長い論理は、確実な前提に立った上で、短い確実な論理を論理的に積み重ねて結論に至る。前提を選ぶに際しては慎重であり、確実な前提を得るために努力を積み重ねる。短い論理は、時や場所、他との関係、意味するものなど、その妥当範囲を限定した確実なものとする。短い論理を積み重ねて長い論理にする際には、その論理関係の正しさを確保するように注意する。一応の結論がでれば、それまでの論理を点検すると共に、情緒的に受け入れられるものかの観点からも点検する。事実による批判を受ければ、前提や論理が誤っていないか点検し、修正できるものなら、前提や論理を修正する。立派な理論家・思想家ならば、必ず、こうしたステップを踏むだろう。その長い論理は、深みに達することができると共に、一歩一歩前進するが故に誤りが紛れ込んでいないか検証することが容易である。頭の良い男なら、こういったことを実践するだろう。筆者が53ページで述べている東大出の男は大変頭の悪い男ということになる。こんな頭の悪い男を一番とすることは東大への侮辱であろう。

また、不完全性定理により、公理系内部で正しさを証明できない命題があることは、人間の扱う論理にとっては障害とならない。その命題が、現実世界の事実と一致するか、人間にとって有用かの観点などから人間が取捨選択すればよいだけである。平行線の公理も人間サイズの世界では妥当するが、宇宙サイズの世界では妥当しないと考えることになるのである。

そして、情緒の徹底にも問題がある。ヒトラーとドイツ人によるホロコーストは「ユダヤ人憎し」の情緒に起因する。ベルサイユ体制は、「ドイツ人憎し」の情緒に起因する。日本の美しい情緒と形を徹底したのが、太平洋戦争である。情緒が突出したため、このような不幸が生じた。そして、戦後、日本の美しい情緒と形は、論理的裏づけを欠いたために、敗戦の事実とヨーロッパ思想を前に衰退した。さらに、最近では、ジェンダー理論が論理により否定されるまで、男女間の美しい情緒と形を否定するフェミニズムが跋扈した。誤った情緒の行き過ぎを抑えるためにも、美しい情緒を守るためにも、正しい論理は必要なのである。自分は、ある情緒と形が「美しい情緒と形である」と考えても、美しいと考えない人もいる。人殺しを肯定する人もいれば、卑怯がカッコいいと主張する者もいる。そうした人に対して、説得を行うには論理が必要である。正しい論理が人殺しを否定する原則を打ち立て、卑怯はよくないことだという確実な根拠を提供する必要がある。私の「新しい幸福の原理」は、そのような要請にこたえるものである。

そして、19ページで述べられている「荒廃の真因」である。宗教・道徳主義の力を奪った唯物論・共産主義、脱構築の哲学・思想、左翼・フェミニズムの理論などが力を失った。しかし、唯物論等の力を奪い、道徳に力を与える新しい哲学・思想が既に存在するにもかかわらず、その存在が否定され、無視されている。新しい筋の通った理想が存在するにもかかわらず、学問の理想と真理の原則に反して無視されている精神の空虚が真の原因である。その結果、理想が力を失い、現実主義・実力主義・経済主義・拝金主義が横行しているのである。




「救世国民同盟の主張」へ戻る

「トップページ」へ戻る