西ローマ帝国衰滅史(全体)

オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス
オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス
By Yonge, Charlotte Mary, (1823-1901)
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電子書籍「哲学の星系」、でじたる書房で販売中の電子書籍「歴史解明! かくして動く」に掲載されている「西ローマ帝国衰滅史」を無償公開します。

2006年11月13日

『永遠のローマ』(「世界の歴史 3」弓削達著、講談社刊)
『ローマ帝国衰亡史』(エドワード・ギボン著、筑摩書房刊)を読んで。

◇キリスト教ローマ帝国の誕生
 コンスタンティヌス帝の死後、帝国は分割されるが、コンスタンティウス帝が単独の支配者となった。その地位を継いだユリアヌス帝は、異教の復活をもくろむが対ペルシア戦で戦死して潰える。コンスタンティヌス朝は断絶する。
 しかし、コンスタンティヌス帝のキリスト教優遇策は功を奏し、キリスト教はローマ帝国内の多数派となってゆく。それとともに、キリスト教は帝国に対する態度を改める。
「キリスト教の信仰において、ローマ帝国は、原始キリスト教の時代に考えられていたような悪魔の国『バビロン』ではなくなり、神の摂理によって存在するにいたった特別の帝国だ、と考えられるようになったのである。」(『永遠のローマ』72頁)
それとともにキリスト教はアタナシウス派を正統派(カトリック)として確立してゆく。
 しかし、民族大移動が始まった。西ゴート族がフン族に追われて首都に近いローマ領内に逃げ込んだ。その西ゴート族が暴徒化し、それを撃破しようとしてウァレンス帝は378年に敗死する。テオドシウス帝は西ゴート族の懐柔に成功する。西ゴート族は帝国の同盟者として帝国内に居住し自治を行うことを認められる。帝国は内部に異分子を抱え込むことになる。
 381年にはテオドシウス帝によりカトリック信仰が帝国の国教とされる。そしてテッサロニカ虐殺事件でテオドシウス帝を屈服させるほど力を付ける。392年には異教信仰が禁止される。キリスト教は、初期は特にだが、公共善の維持よりも隣人愛に重きを置いた。国全体や遠くの人々のことも考えて「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」よりも隣人愛を実践する人が尊ばれるのである。公共善について考えるよりも神学論争に熱中する人々が多くなったのである。特に議論好きのギリシア人にこの傾向は著しい。キリスト教の国教化はキリスト教を公共善に高める対策となる。
 テオドシウス帝は異教の最後の抵抗でもあった簒奪帝エウゲニウスの乱を打ち破って帝国を統一した後、395年に病死する。帝国最後の統一帝であるテオドシウス帝の死後、帝国は東と西に分割され、二度と統一されることはなく、西のローマ帝国は滅亡する。

◇帝国=皇帝の魅力
 西帝国は維持されず、短期間で滅亡した。帝国が維持されるのは帝国=皇帝に魅力があるからである。軍隊にとって皇帝の魅力とは権威・権力を使って、誇るべき軍隊という権威を軍に持たせ、軍に規律を与え、給料を支払い、補給・装備を与え、戦場で勝利させるという期待を満たすからである。
 市民にとっての皇帝の魅力とは第一に権威・権力により服従させた軍を使って帝国の安全と治安を守ることである。そして、支配の公正さを保つこと。すなわち支配が正義と人間愛に基づくこと。元首政下では、自由に暮らせること、税が軽いことなども魅力であったが、専制君主政下で失われた。文明によるインフラの恩恵は、「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が失われて行った結果、薄らいで行く過程にあった。
 蛮族にとっての魅力とは、皇帝が権威・権力を使って諸勢力の調停を行うこと、皇帝の権威・権力を借りて権威・権力を振るうこと。ローマ文明の輝き。これも「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が失われて行った結果、薄らいで行く過程にあった。
 帝国=皇帝がこれらの期待を満たせば、皇帝の権威・権力が維持・増進され、裏切れば衰える関係にあった。軍隊、市民、蛮族いずれにとっても、皇帝の権威・権力が重要であった。そして、究極において皇帝の権力を支えていたのは、皇帝の権威であった。
 東帝国皇帝の権威を支えるものは何か。世襲による血に基づく権威。皇帝自身の能力を含むカリスマ。これは偶然的なものであった。永遠のローマ帝国の正当な継承者としての伝統的権威。それに、皇帝教皇主義による神の代理人としての権威。皇帝教皇主義は、ここでは単に皇帝の権威が神の代理人としてキリスト教により支えられることを指したい。皇帝とキリスト教徒の具体的な政治関係、皇帝と教会の具体的政治関係を規定するものではない。
 西帝国皇帝の権威を支えているものは何か。カリスマ。世襲。伝統。これらは、西帝国も利用可能であった。しかし、皇帝教皇主義による権威付けはできなかった。ローマ市に使徒ペテロの後継者として神の代理人であることを主張するローマ教皇が存在した。それに、神の代理人が一人であるとすれば、帝国の正式な首都であるコンスタンティノポリスに所在する東ローマ皇帝がその座を占めていると観念された。後の神聖ローマ皇帝のようにローマ教皇から帝冠を受けるという訳にも行かなかった。ローマ教皇の権威を認めること、すなわち教皇を神の代理人と認めることに繋がるからであった。このため、西ローマ皇帝の権威は東に比べて弱いものとなった。
 もう一つ、西の皇帝に不利な点があった。それは、分割された西帝国領土内の経済力が東帝国より弱かったことである。権威・権力を維持するのには経済力が必要である。軍隊を維持すること一つでも金が必要である。その経済力が劣っていたのである。さらに、東帝国では皇帝の強い権威の下、下から出世した行政官僚が財政の強化に励んでいた(『永遠のローマ』110〜2頁)。
 東西両帝国とも世襲を利用したが、世襲には弱点があった。世襲皇帝は有能とは限らず、有能な将軍との対立が生じる点。皇帝を操ろうとする者による宮廷内部の闘争。皇帝の地位を巡る皇族間の争い。
 市民精神を失った帝国において、皇帝権威の重要性は明らかである。皇帝権威の観点から西ローマ帝国の崩壊を跡付けたい。

◇西帝国崩壊の過程
スティリコと妻のレリーフ

スティリコと妻のレリーフ From Wikimedia project
 テオドシウス帝はゲルマン人のスティリコ将軍に帝国の後見を託す。スティリコ将軍は、東ローマ帝国の実力者、佞臣ルフィヌスの排除を図る。スティリコに東ローマ軍を分け与えられてコンスタンティノポリスに入ったガイナス将軍は佞臣ルフィヌスの排除に成功する。しかし、東ローマ宮廷と一緒にスティリコの後見を拒否する。西ゴート族がトラキアから南下し、マケドニアに侵入する。スティリコ将軍は西から軍を派遣して西ゴート族と戦い、撃滅しようとする。しかし、西ゴートは東帝国と同盟し臣下となったため、不可能となる。西ゴート王アラリック(在位395〜410年)は、東帝国からイリリクム軍司令官の地位を得る。他方、スティリコ将軍はアフリカ総督ギルドーの反乱を鎮圧する。
 トラキアから、マケドニア、イリリクムと収奪した西ゴート族は北イタリアに侵入する。その時、スティリコ将軍とその軍は辺境の地にいたが、とって返して、ポルレンティア(402年)、ウェローナ(403年)で西ゴート族を撃破する。405年にはラダガエスス率いるゲルマン諸族混成軍が北イタリアに侵入するが、スティリコ将軍はこれも撃破する。スティリコ将軍の声望は上がる。次いで、スティリコ将軍は東ローマとの係争地を取り戻そうとして西ゴートの協力を得た上で軍を東帝国に向けて集中する。この隙を突いて、406年から7年にかけての冬にヴァンダル、スエビ、アランのゲルマン諸族がライン河を渡河してガリアに侵入する。この騒乱中にブリタニア駐屯軍が擁立した簒奪帝コンスタンティヌスがガリアに侵入する。これらに対処するため、スティリコ将軍は対東ローマ作戦を中止する。約束が違うと迫る西ゴートを多額の賠償金を約束して懐柔する。
 408年、東のアルカディウス帝が死去する。西のホノリウス帝はコンスタンティノポリスの葬儀に赴き、影響力を行使したいと考える。これに対して、スティリコ将軍は自分がコンスタンティノポリスに赴くとともに、ホノリウス帝はローマ軍と西ゴート軍を自ら率いてガリアにいる簒奪帝を打倒すべきだと進言する。ホノリウス帝はこれに従う。しかし、反スティリコ派の陰謀に乗って、ガリア戦のために集結したローマ軍がスティリコ派の高官を殺戮するに任せる。この後、スティリコ将軍も処刑する。
 この事件は世襲の欠陥による無能な皇帝と有能な将軍の組み合わせが引き起こしたと言えよう。声望が高いスティリコ将軍は、ガリアを鎮定することによって、これ以上自分の声望が高まれば危険だと考えた。それに帝国のためにも皇帝がガリアを鎮定して皇帝の声望が高まった方がよい。これに対して、ホノリウス帝はスティリコ将軍の忠誠に陰りが出たと考えた。忠誠心の無い有能な将軍ほど危険なものはないと考えた。東の皇帝に比べて権威が弱いので、その不安は大きい。そこで、宮廷内のスティリコ将軍の対立勢力による陰謀に従って、スティリコ将軍を処刑した。
 これは皇帝の権威に重大な影響を与えた。皇帝は自ら軍を率いなくても有能な将軍に軍を率いさせて軍を勝利させなければならない。なのに、有能な将軍を必要とする危機的な状況下において声望の高い有能な将軍を処刑してしまうのである。
 そして、スティリコ処刑の結果、スティリコという重しが取れてローマ人のゲルマン人に対する反感が暴発し、ゲルマン同盟部族兵の家族を殺戮する。西ゴート族はイタリアに侵入する。ゲルマン同盟部族兵は西ゴート軍に合流する。
 強化された西ゴートはローマ市を包囲して圧力を加え、貢ぎ物を得る。そして、ローマ市を人質にとって、ラヴェンナの西ローマ宮廷に要求を突き付ける。スティリコ将軍の処刑により指導力を欠いた西ローマ宮廷は要求を拒否する。西ゴート王アラリックは、元老院議員アッタルスをローマ市に簒奪帝として擁立する。しかし、新皇帝を属州に認めさせることはできなかったし、東帝国から増援を得てラヴェンナで頑張るホノリウス帝から譲歩を引き出すこともできなかった。アラリックは簒奪帝を廃位する。アラリックはラヴェンナに進出して西ローマ宮廷に圧力を加えるが、返って侮辱を受ける。これに怒ったアラリックはローマ市に進軍し、苦もなく入城し、略奪を働く。西ゴートは補給をろくに受けられず移動を続けていたため、実力行使を行わざるを得ない事情もあった。
 都市国家ローマの発祥地であり、前390年にケルト族に寇略されてからこの時まで蛮族の侵入を許さず、長い間ローマ帝国の首都として世界を支配して繁栄を極めた「永遠のローマ」の象徴であるローマ市が蛮族の手に落ちて略奪された。このことは西ローマ皇帝の権威に大打撃を与えたと考える。皇帝に対する第一の期待は安全である。「永遠のローマ」の安全さえもホノリウス帝は守れなかったのである。それに、「永遠のローマ」を守れてこその永遠のローマ帝国の「正当な継承者」である。スティリコの処刑とそれに続く、ローマ寇略は西ローマ皇帝の権威を大きく損なった。しかし、決定的ではなかった。
 この間、ガリアの簒奪帝はヒスパニアも支配下に治める。しかし、ヴァンダル、スエビ、アランの諸族のヒスパニア侵入を許してしまう。ブルグント族もガリアに侵入する。
 411年に西ローマの将軍コンスタンティウスはガリアの簒奪帝コンスタンティヌスを倒す。しかし、ブルグント王などが新たな簒奪帝ヨウィヌスをガリアで擁立する。西ゴート族は南イタリアからのアフリカ渡航に失敗し、アラリック王は死亡する。新王アタウルフはローマに忠実であることを表明する。
 412年、新王アタウルフに率いられて新天地に活路を求めた西ゴート族がガリアに入る。西ゴートは簒奪帝ヨウィヌスの勢力を一掃する。414年、アタウルフはローマ市進攻以来人質であったホノリウス帝の異母妹プラキディアと結婚する。将軍コンスタンティウスの圧迫により西ゴートはヒスパニアに移動する。そこで、アタウルフは刺殺され、ワリアが新たに王となる。ワリアはプラキディアを返還して西ローマの同盟部族として勤務することと引き換えに、穀物支給の約束を取り付ける。この約束に従い、西ゴートはヒスパニアでヴァンダルの一派シリング・ヴァンダル族を滅ぼし、アラン族に大打撃を与える。その後、418年に西ゴートは南西ガリアに定住地を与えられてヒスパニアを去る。フランク族、ブルグント族も帝国内に領土を得る。ブリタニアは既に独立していた。
 ガリア・ヒスパニアの秩序を回復したコンスタンティウス将軍は、417年にプラキディアと結婚し、プラキディアとの間に後に一男一女(西ローマ皇帝となるヴァレンティニアヌス3世とその姉ホノリア)をもうける。421年にはコンスタンティウス将軍がホノリウス帝の共同皇帝となるが、間もなく死去する。ホノリウス帝と不和となったプラキディアとその子らは東ローマに亡命する。
 423年にはホノリウス帝が死去する。宮廷高位者、ヨハンネスが即位する。プラキディアとヴァレンティニアヌス3世は東ローマの援軍と共に帰国してヨハンネス帝を排除する。425年にヴァレンティニアヌス3世が即位する。ヴァレンティニアヌス3世にはガリア・ヒスパニアの鎮定者コンスタンティウス将軍の血を引くことで権威の多少の強化があった。しかし、即位した当時は幼く、実権はプラキディアの手にあった。このことは権威を弱めた。
 西ゴート王のテオドリック1世(在位419〜51年)が領域の拡張を図り、南ガリアのアラルテ(今のアルル)を攻撃する。426年、西ローマのアエティウス将軍がこれを撃退する。アエティウスの謀略でプラキディアとアフリカ軍司令官ボニファティウスが対立する。ボニファティウスに招かれて、429年にはヴァンダルの一派アスディング・ヴァンダル族がヒスパニアから海を越えてマウレタニアに侵入する。ボニファティウスは謀略に気づいてプラキディアと和解し、ヴァンダルと戦うが敗北する。ボニファティウスはラヴェンナの宮廷に帰還してアエティウスと決闘して勝利するが、受けた傷により死亡する。アエティウスは反逆者とされ、フン族の支配するパンノニアに引きこもる。しかし、間もなくラヴェンナに呼び戻される。プラキディアは帝国の保護者としてアエティウスを選んだ。
 アエティウスとフン族が、活動を活発化させていたブルグント族に436年に大打撃を与える。同年、西ゴートはナルボ(今のナルボンヌ)の占領を図るが、ローマのリトリウス将軍に撃退される。439年にリトリウスが敗れて捕虜になる。アエティウスは西ゴートと講和する。講和条件は西ゴートに有利であった。
 ヴァンダル族は435年には平和条約を結んでマウレタニアをローマに返還するが、439年にカルタゴを占領する。カルタゴはイタリアの穀倉であった。カルタゴを防衛できなかったことは西ローマ皇帝の権威を削いだ。それに西ローマの経済力を大きく低下させたと考えられる。
 440年代には、ローマの国力が衰えたことを背景に、サンビラ王のアラン族とゴアル王のアラン族がガリアに侵入して定住し、同盟部族の地位を与えられる。ブルグント族の残党にも同盟部族の地位が与えられた。
 450年、東ローマに圧迫を加えていたフン族が東ローマと平和条約を結び、西に向かって進軍した。背景にはコンスタンティノポリスに追放されていたヴァレンティニアヌス3世の姉ホノリアがフン族の王、アッティラに送った保護を求める手紙と金と本人のものであることの証拠の指輪があったと言う。アッティラは強引にこの手紙を結婚の申し込みと解釈し、婚約者として西ローマに権利があるとしたのである。この年、プラキディアが死亡する。
 451年、フン族とアエティウス指揮下の西ローマ軍の間にカタラウヌム平原で決戦が行われた(カタラウヌムの戦い)。西ゴート・フランク・ブルグント等の同盟部族がローマ軍には加わっていた。決定的勝敗はつかなかったが、フン族は退却を余儀なくされた。452年、アッティラは再度、軍を集結させて北イタリアを寇掠する。この時の避難民がヴェネチア共和国の礎を作った。ヴァレンティニアヌス3世はラヴェンナからローマに避難する。西ゴートの来援も得られず、アエティウスは皇帝軍単独でアッティラ軍の進軍を妨げようとする。アッティラはローマ教皇レオ1世の説得と大金の獲得により退去する。これによりローマ教皇の権威は増した。間もなくアッティラは死亡し、フン族の帝国は崩壊する。
 454年、スティリコ将軍の場合と同様な事件が起こった。ヴァレンティニアヌス3世がフン族撃退により極めて声望が高まったアエティウスを殺害してしまうのである。危機が去った後だが、この場合も西ローマ皇帝の権威は大きな打撃を受けたと言えよう。
 455年には、アエティウスのかつての従者にヴァレンティニアヌス3世が殺害されてしまう。これにより、西のテオドシウス朝は断絶する。皇帝の世襲の権威は失われた。
 権威の低下を受けて西ローマは権威の回復が必要であり、名門の元老院貴族マクシムスが即位する。ヴァレンティニアヌス3世に妻を陵辱されたマクシムスがヴァレンティニアヌス3世殺害の黒幕であったと言う。マクシムス帝はヴァレンティニアヌス3世の寡婦エウドクシアを暴行する。エウドクシアは復讐のためヴァンダル王ガイセリックに助けを求める。ガイセリック軍がローマに迫るとマクシムス帝は逃亡し、殺害される。ヴァンダル軍はローマ市を寇掠する。
 「永遠のローマ」の象徴、ローマ市はまたしても守られなかった。これも皇帝の権威に対する大打撃となったと考えられる。有能な将軍の殺害、世襲の断絶、ローマ市の防衛の放棄、これらのために西ローマ皇帝の権威は極端に低下した。実権者が傀儡皇帝を擁立することも可能となった。
 この間、「海辺はサクソン族に荒らされ、アレマンニ族とフランク族はライン河からセーヌ河に進出した。」(『ローマ帝国衰亡史』第Y巻、43頁)。この危機に際して、ガリア=ローマ貴族が著名なガリア=ローマ貴族でありマクシムス帝によりガリア軍司令官に任命されていたアウィトゥスを擁立する。これには権力者、西ゴート王テオドリック2世(在位453〜66年)の後援があった。権力の空白期に権力者の後ろ盾を得て、ガリア=ローマの復権を図ったのだ。しかし、456年、ヴァンダルからのシチリア防衛を任されたゲルマン人将軍リキメルが戦勝して成功を収め、アウィトゥス帝のイタリアにおける代理人を駆逐してイタリアを支配下に収める。これを討伐しようとしたアウィトゥス帝は敗れて逆に退位させられてしまう。
 457年、西ローマの最高実力者となったリキメルは共にアウィトゥス帝を倒したマヨリアヌス将軍を帝位につける。リキメルが即位しなかったのは、皇帝の権威が失墜し権威が求められていた時にゲルマン人であることが障害となったのであろう。それに、リキメルはアリウス派キリスト教徒であった。ローマはリキメルを帝位につける余裕も寛容さも失っていた。西ローマの権威と権力は分裂の傾向を強める。これに対して、ガリア=ローマ貴族は西ゴートとブルグントの後援を得て、ローマの勇将、マルケルリアヌス将軍を帝位に推すが、マヨリアヌス帝に敗れて潰える。マヨリアヌス帝は西ローマの税制、地方自治などの政治改革に取り組むとともに、西ゴートを下すなどしてガリアとヒスパニアを一時安定させる。その有能さが実力者リキメルにとっては目障りだった。そこで、マヨリアヌス帝がヒスパニアのカルタヘナに集結したヴァンダル遠征艦隊をヴァンダル軍の奇襲により失って帰還したときに、リキメルはマヨリアヌス帝を殺害する。
 461年、リキメルは無名の元老院貴族セヴェルスを帝位につける。リキメルの完全な傀儡であったセヴェルス帝はあまりに無能なために、リキメルにも愛想をつかされて、465年に変死したと言う。その後、帝位は十八か月以上空位となる。リキメルという恐ろしい実力者がいるので西ローマ内には進んで帝位につこうとする者はいなかったこと。海辺を侵略するヴァンダル軍撃退のために東ローマから艦隊の来援を必要としたので、西の帝位について東の皇帝の同意を得たかったことが原因であろう。このため、東皇帝レオ1世は艦隊の派遣と引き換えに東から皇帝を送り込むことに成功する。それが、コンスタンティノポリスの名門貴族で東の前皇帝マルキアヌスの女婿アンテミウスであった。
 467年に即位したアンテミウス帝は娘をリキメルと結婚させるとともにガリア=ローマ貴族に接近を図り、リキメルを押さえることに苦心する。
 しかし、ガリアにおいては深刻な状況が出現していた。傀儡皇帝まで現れることになった西皇帝の権威の失墜は、その権威に連なる者たちの心理に重大な影響を与えていた。彼らのモラルが堕落したのである。当時のローマのガリア総督による圧政は凄まじかった。支配の公正さが失われたのである。結果、民衆はゲルマン人の支配を受け入れる者が多くなった。
「サルウィアーヌスは言う。ローマ領内で蛮人的非人間性をみるよりも、ローマ領内においては享受することのできないローマ的な人間性を、人びとは蛮人のもとで得るのだ、と言う。」(『永遠のローマ』179頁)
 そして、ガリアに割拠する西ゴートでは、466年、エウリック王(在位466〜84年)が兄のテオドリック2世を殺害して即位し、ローマに対して公然と反旗を翻す。西ゴートのロアール川渡河はローマとフランク族の共同により防がれたが、ガリアとヒスパニアの大部分が西ゴートの支配に帰した。他方、東ローマ艦隊のヴァンダル王国遠征は失敗に終わり、返ってヴァンダルにシチリア島を奪われてしまう。
 リキメルとアンテミウス帝の対立は深まる。472年、リキメルは、名門の元老院議員オリュブリウスを帝位に擁立し、ローマ市を舞台とした内戦の結果、アンテミウス帝を殺害する。しかし、リキメルは間もなく病死する。ともかくも西ローマを支えていた権力は消滅する。その後オリュブリウス帝も病死する。
 リキメルの後を継ぎ、その権力の一部を継承したリキメルの甥、ブルグント王子グントバトは473年、グリュケリウスという軍人に火中の栗を拾わせ、帝位に就ける。東の皇帝レオ1世は姪と結婚していたダルマティア軍司令官ネポスにイタリア進軍を命じる。ネポスは叔父マルケリアヌスの後を継いでダルマティア軍司令官となっていた。474年、ネポス指揮下の艦隊が迫るとグントバトはグリュケリウス帝を見捨てブルグント王国に帰還する。背後にはブルグント王国の王位継承問題もあったと言う。ネポスはグリュケリウス帝を廃位して西の帝位に就く。ネポス帝は西ゴートと和平を結ぶ。
 475年、ネポス帝が全軍司令官に重用したローマ人将軍オレステスが謀反を起こしてラヴェンナのネポス帝を襲う。ネポス帝はダルマティアに退去する。オレステスは自らは即位せず、息子、ロムルスを帝位に就ける。自ら登位すると実力者が現れる恐れがあり、傀儡を背後で操る方がよいと判断したのであろう。リキメルの擁立した傀儡帝は大人であり、他人であり、能力もしくは権威を有していた。これに対してロムルスは子供であり、息子であり、能力も無ければ権威も無かった。実力を握った者が反旗を翻すことは容易であった。
 476年、当時、西ローマ軍の実体となっていた諸部族混成ゲルマン人部隊がイタリア人の土地の三分の一を部隊に分け与えることを要求する。西帝国の財政窮乏により給料の支払いは無いも同然だったと考えられる。皇帝による給料の代わりとなる軍隊への給付を期待したのである。それはガリアやヒスパニア、アフリカで行われていたことでもあった。これを積極的に恩恵として与えれば、封建的関係により軍隊をつなぎ止めることも可能ではなかったかと考えられる。ローマ人のオレステスはこれを拒否する。部隊は反乱を起こして指揮官のオドアケル将軍を王とし、オレステスを殺害する。ロムルス・アウグストゥルス帝は廃位される。
 オドアケル王は西ローマの帝位を東帝国に返還する。東帝国はオドアケルの王国を承認する。その結果、西ローマの正統な帝位を主張していたネポスは、東ローマの支持を失い480年に暗殺される。これにはネポスにより退位させられていたグリュケリウスが関与していたと言う。この後、800年にフランク族のシャルルマーニュが戴冠するまで、西にローマ皇帝は現れなかった。

◇西ローマ帝国の滅亡とは
 なぜ、オドアケルは皇帝を立てなかったのか。西ローマ皇帝の権威は回復が著しく困難なほど失われていて利用価値が無かったこと。権力はイタリアにしか及んでいなかったこと。皇帝を立てれば、近隣諸国が帝国の復活をもくろんでいるのかと疑い、皇帝による征討を警戒するであろうこと。皇帝を立てれば帝位を巡る争いが近隣諸国との間に起こる可能性があること。戦乱で荒らされたイタリアには帝国を復興する力が無いことなどが理由であろう。
 なぜ、東帝国は新たな西ローマ皇帝を立てなかったのか。当時の東帝国には西帝国の復興が実力的にできなかったこと。オドアケル王が東帝国を尊重したこと。東ローマ皇帝が唯一のローマ皇帝として地中海世界に君臨できることなどが理由であろう。
 民族の大移動が起こったとき、なぜ、東帝国は生き延びたのか。皇帝教皇主義による権威の強化。民族の移動に対する軍事政策が巧妙だったこと。帝国の正式な首都、第二のローマ・コンスタンティノポリスの守護者としての権威。西と違い、首都を、コンスタンティノポリスを、守り通した。鉄壁の首都を持ち得た。経済力が大きかったこと。経済力で蛮族を懐柔することもできた。
これに対して、西帝国は権威と経済力が弱かった。有能な将軍を二度も殺した。一度目で蛮族の信頼を失い、二度目ではローマ人の信頼を失った。蛮族によるローマ市の寇略を二度も許した。西帝国の中心イタリアが、ローマ市というローマ帝国の中心があったが故に、アパシーの進行がより深刻だった。数々の帝国が興亡を繰り返したオリエントよりもずっと、ローマという空前の大帝国が没落する機運は深刻に受け止められたであろう。加えて、西帝国がゲルマニア本土とライン河を挟んで接し、ゲルマン人にも馴染み深い土地であったことなど。結果、滅亡した。
 言うまでもなく、西ローマ帝国の滅亡はローマ帝国の滅亡ではない。市民精神に基づく古代ローマはディオクレティアヌス帝とコンスタンティヌス帝により既に死亡を宣告されていた。この後、イタリアによる西ローマ帝国復活の芽は東ローマにより摘み取られる。東ローマは東ゴート族を使ってオドアケルの王国を滅ぼし、東ローマの将軍を派遣して東ゴート王国を滅ぼして一時的にイタリアを併合したからだ。そして、コンスタンティヌス帝が産み出したキリスト教ローマ帝国は東ローマ帝国=ビザンティン帝国として1453年まで続く。その後は、モスクワを第三のローマとする考えが生まれた。西におけるローマ理念はゲルマン人が引き継ぎ、神聖ローマ帝国は1806年まで続いた。それに加えて、イタリアにおける永遠のローマはローマ教皇庁に引き継がれた。




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