哲学の原理の先頭へのボタン 前のページへのボタン 次のページへのボタン 哲学の原理の末尾へのボタン

第2章 構造図を支える思想

 第1節 価値論
 精神が生命の本質であるからには精神が善・光であり、物質が悪でなければならない。すなわち、精神の宿る人間は物質によって悪に染まっていると言える。精神の支配が必要とされる所以であり、心に精神の支配部分が存在する理由である。人間の本性は、人間生命の本質である精神が善なのだから、善であることになる。しかし、人間全体として見れば物質である肉体に依存しているので善であるとも悪であるとも断言できないと考える。
 神は最高価値であり、善であらねばならない。とすれば精神は神の精である。
 愛とはあるものを価値とすることである。人間は一つの形では一つのものしか愛せない構造となっている。しかし、神は最高価値=絶対者であるから平等に愛せる。従って、人を平等に愛する神を愛することは人類愛となる。

精神=絶対価値
人間=標準価値

 人間が働くには、人間にとってどういう価値を持つかが基準とならざるをえない。しかし、人間を基準とすると、人間にとりただ快適な方向に向かい、人間を堕落させる恐れがある。精神を基準として堕落を防ぎ、より高い方向をめざす態度が人間にとって必要である。精神の導きに従い、人間存在を高める努力が必要である。

 第2節 構造図を支えるべき思想―精神について
 精神は心にたがをはめ、イデアを宿す。偉大な精神という言葉があるが、精神そのものに偉大とか価値的な差があるわけではない。法の下で差別すべき精神は存在しないということである。いうなれば精神は平等であるし、あらねばならない。精神の現実世界における存在形態である人間に価値的な差があらわれるのは、物質によってもたらされるところが大である。肉体には、祖先の、自身の努力、歴史環境によって、価値的な差が生じてくるのである。言うところは、頭がよい、歌がうまい、速く走る、これらはすべて精神の価値とは何らかかわりのないということである。
 もちろん、精神は平等であるとはいっても、現実世界においては人間としてその価値は様々であるのだから、現実世界の関係においては、それに応じて様々に取り扱われねばならない。しかし、精神を持つ存在そのものとしては、あくまで平等なのである。共産主義は偉大な精神と平等な物質、つまり精神の指導という名の奴隷化を認めるものである。また、これは人間の平等というものを肉体そのものに基礎づけようとする誤った考え方と言わねばならない。精神の平等は仏教にいう仏性の平等と同じ考えに基づく。

哲学の原理の先頭へのボタン 前のページへのボタン 次のページへのボタン 哲学の原理の末尾へのボタン