★第一哲学講座-精神という範疇と魂について
2002年4月5日
2006年9月27日修正


 なぜ、精神という範疇をたてるか。物質とは区別された精神を認めなければならない理由について述べる。精神という範疇を認めるかどうかは別として、人間には精神的な作用があることは唯物論であっても認められるだろう。
 その精神的な作用には次のようなことが上げられる。精神は五感を統合し、それを客体として認識できる。貯蔵された認識の結果を引き出し、認識の結果や五感を相互に比較検討できる。しかも、その過程を意識することができ、統制できる部分もある。これを言い換えると次のようなことになる。心を統合する。思考ができる。意識の元となる。肉体を動かせる。感覚が意識される。こういったことである。
 こういった作用を物質の働きだけで説明できるだろうか。たとえば、視覚について考えてみよう。人間は意識して見ることが可能である。その仕組みは目に映ったものをある主体が意識して見ていると言える。しかし、その主体はどうやって見ているのであろうか。その主体も目のようなスクリーンに映ったものを何かが見ていることになる。その何かも主体であるから、何かのスクリーンを見ている。このように主体の正体は限りなく遠くに退行することになる。そして、精神作用は認識や感覚の統合を特徴とする。統合するからには、他の機能もこの統合に依存することになり、統合を行なう特別の実体が必要となる。 そして、精神作用は意識を生じさせる。
 精神という範疇をたてることでこれらの問題を解決できる。科学が科学的分析的手法で脳を切り刻んで残るものは何も無いという結果が予想される。哲学的総合的全体的思考によって、精神という範疇は存在すると考える。
 唯物論ではスクリーンと主体の分裂を克服し得ない。精神という範疇を認め、精神とは生命の本質であるとともに、イデアを宿すスクリーンでもあることにより、この分裂が克服される。
 そして、精神は生命の本質であるからには人間存在の平等も基礎づけるものでなくてはならない。精神は価値的に平等でなければならない。であるから、『新しい哲学の原理』では精神を無色なものとして論述した。また、魂ではなく、「精神」という名を与えたのは、魂にはあの世に関係する響きがあるからである。では、精神という範疇で全てが解決するであろうか。
 次の議論は仮のものである。確定したものではない。魂はイデアの一種ではないだろうか。人間の魂とは精神に恒常的に宿り、人間の精神に基本的な色や形を与えるイデアの一種だと考えられる。



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