★第一哲学講座-時間の実在
『時間は実在するか』(入不二基義著、講談社現代新書)を読んで。

2003年4月7日
2006年9月27日修正


 ゼノン(前五世紀古代ギリシアの哲学者)の飛ぶ矢のパラドックスとは「飛んでいる矢も、各瞬間にはある一点に位置して止まっている。そして、どの瞬間についても同じことが言えるので、結局、飛んでいるあいだじゅう矢は止まっている」(一五頁)というものである。これは時間の実在に影響を及ぼし得ない。なぜなら、各瞬間において飛ぶ矢の位置は異なっていて、変化が存在する。時間の本質は変化である以上、時間の実在に影響を及ぼし得ないことは明らかだ。
 イギリスの哲学者J・M・E・マクタガート(John McTaggart Ellis McTaggart, 1866-1925)は次の四段階で時間の非実在を証明しようとする。

ステップ1 時間の捉え方には、A系列とB系列の二種類ある。
ステップ2 B系列だけでは、時間を捉えるのに不十分である。
ステップ3 A系列が、時間にとって本質的である。
ステップ4 A系列は、矛盾している。
ゴール    時間は実在しない。
(六○頁)

A系列、B系列とは次のようなものである。

 どの出来事・時点も、それぞれ「過去である」「現在である」「未来である」という特徴づけを持つ。この「過去-現在-未来」という特性によって捉えるとき、出来事・時点の系列はA系列を構成する。一方、どの出来事・時点も、その中の二者のあいだには、「より前」「同時」「より後」のいずれかの関係が成り立っている。この「より前」「同時」「より後」という関係によって捉えられた出来事・時点の系列は、B系列である。
(七○〜七一頁)

C系列とは次のようなものである。

 C系列は、ふつうの意味での「順序」から、時間的な方向を差し引いた抽象的な順序なのである。いわば、時間の持つ方向性から解き放たれた、ある種の無時間的な「秩序」が、C系列なのである。
(一○三頁)

A系列、B系列、C系列の間には次のような関係がある。

C系列+A系列=B系列
無時間的な順序・秩序+時間的な変化・動き=時間的な順序関係
(一○二頁)

 これらを前提にマクタガートのA系列は矛盾を含むという証明を考えるとおかしなものとなる。マクタガートのA系列は矛盾しているという証明は次のようなものである。

1.出来事は「過去である」「現在である」「未来である」の三つのA特性をすべて持たなくてはならない。
2.「過去である」「現在である」「未来である」の三つのA特性は、変化を表すためには、互いに排他的でなければならない。
ゆえに、
3.A特性が出来事に適用されるならば、その出来事は、互いに排他的な三つの特性をすべて持たなくてはならない。これは、矛盾である。
(一二三頁)

 マクタガートの証明に対しては、「出来事もまた、『過去である』『現在である』『未来である』という両立不可能な三つの特性を、それぞれ異なる時間的視点(時制)に応じて、すべて持つことができる。」(一二六頁)と反論できるのである。この反論に対するマクタガートの反論は「反論する者は、B系列的な『時間』の観念(時間的な順序関係)を使うことによって、『矛盾』を回避している。」(一二七頁)、すなわち、証明の結果であるB系列を証明の手段として使っているというものである。『時間は実在するか』ではこれを認めた上で別の反論の道を探るが、私の考えではマクタガートの反論は成り立たない。
 出来事に過去・現在・未来が帰属することを説明するには、過去・現在・未来が同時ではないこと、過去・現在・未来がC系列の関係にあることを持ち出せば十分だからだ。すなわち過去・現在・未来が別の時点であれば、A系列は矛盾がなくなるのであり、A系列に矛盾が無いことを言うのに過去・現在・未来の進行順序まで述べる必要はないのだ。
C+A=B
C系列にA系列が加わってB系列が生じる。この式そのままでいいのだ。
 物理学は実在に関する科学である。その物理学において時間(t)を導入せざるを得ないのだから、時間は実在すると考えるのが自然である。なぜ、時間の非実在を証明しなければならなかったのか。その思想史的意義こそ問われるべきだろう。




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