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第一章 自由についての哲学的考察

 第1節 自由の基本的意義
 自由の意義に関しては、大きく分けて三つの考えがある。「束縛のない状態」とする説、「能力若しくは力」とする説、「理性による支配」とする説である。このうち、言葉が歴史的文脈において用いられる以上、歴史的に一般人がまず想起する意義である束縛のない状態を中核とせざるをえない。では他の二つの意義は除去すべきものか。この二つの意義も多数の人々の承認を得て来た以上、自由についての何らかの無視しえない本質に関する言明と考えるべきである。
 能力あるいは力とする説について考える。他からの束縛がないとしても本人に価値へ接近する現実的力がなければ無意味であろう。束縛のない状態がなぜ人間にとって価値があるかと言えば、自己の価値とするものへ近づけさせるからである。
 理性による支配とする説について考える。理性を国家理性と考えるならば問題だが、合理性を支える原理と考えるとき、現実的な意義を有する。理性が支配すれば合理的方法で自己の価値とするものへと近づけることになる。
 以上から考えると、三つの意義を包摂しうる「自己の価値への接近可能性」と自由を定義すべきである。この定義は言語的機能として、次のものを包摂する。価値がどのようなものかにより、外面的価値・財宝や食料などとか、内面的価値・名誉や愛情等を含む。接近可能性については、接近を阻む障害がどのようなものかによる。外部的障害・生存の必要。これは生活のために働かなければならないことであり、外部的障害の中でも最も普遍的である。他者による妨害などとか、内部的障害・自己の欲望や規範などを含み得る。
 外面的価値への外部的障害がない状態が典型的な束縛のない状態であろう。多くの人々にとり主要な価値である外面的価値へ接近しようとする場合、問題が生じる。外面的価値は有限であるので、その価値を獲得しようとする人間の間に争いが起こる。資源分配の間題である。少ない資源を巡ってより大きい分け前を得ようとして平等の問題が生じる。自由は平等の問題と分かち難く結び付いている。
 外面的価値への障害がないか、乗り越えられる状態が能力あるいは力であろう。
 内面的価値への内部的障害がない状態が理性による支配であろう。人間が内面的価値を追求する場合、どの主義・思想に従って追求すべきかという問題がしばしば生じる。自由に価値を追及しようとする人間もいずれかの主義・思想に従って行動せざるをえない。その人間を手に入れようとして主義・思想は争う。自由はあらゆる思想が狙う獲物である。例えば、ある人が私はどんなものにも縛られないで自分の欲するものを追求していると言っても、既に彼は自由という思想に従っているのである。


 第2節 自由は存在するか
 価値を追求する場合、価値をめぐる他人や自己との争いが生じる。しかし、困難を伴っても自己の目標とする価値へ接近しようと努力することが十分可能なことは人間の経験が教えている。ある方向へ意思を向けて努力する(接近する)か怠けるかの道がある。問題としなければならないのは努力するか怠けるかの選択が自由と言えるかどうかとなる。
 まず、すべての選択は決定されていて予測可能どうかということを検討する。すべての原因と法則が分かれば予側可能だと考える。しかし、これはパーフェクトである「神」のみに許される領域である。人間が原因を認識する能力には限界がある。法則の認識についても人間は完全をめざして努力可能であるし努力しているが、完全には程遠いと考えられる。普通の人間に許されるのは、せいぜい限られた知識で説明することぐらいである。ただし、強い因果性について特に物理的な、正確な予側が可能なことは否定できないことである。人間は限定的な予測を行って目的の価値を目指し、客観的に自由な決定をすることが可能である。
 人間のとりうる行動は様々である。しかし、因果性により選択の幅が狭まりうる。ここで残された幅の狭い選択が主観的に自由であったかどうかを問題とする。というのは、ある規範、例えば道徳、刑法から見て人間の行動が非難可能であったかどうかが問題となり、非難可能であるためには主観的に自由な選択が成されねばならないからである。人間の行動は非難可能であり、人間は責任を負うか。
 非難可能であるためには他に選択の余地があったかどうかということよりも自己による選択であったかどうかが重要であると考える。何人も自己の行為・結果と言えるものに対しては責任を持つことが基本的な倫理であると考えられるからである。規範的に見て、ある人が責任を持たねばならないのは自己の行為だからである。では、自己の選択とは何か。自己の内部規範に基づく選択であると言えよう。人間は自己にとっての価値の体系(感性)を持っている。自己の規範から見て必然の選択だったとしても、自己の感性の結果ならば、非難可能であろう。感性こそ非難の基礎である。
 非難の基礎である内部規範はどのように形成されてきたか。それは自己の人生における絶えざる選択によるものである。しかし、その選択が、他に選択の余地がないものであれば、感性による選択であっても、自己が自己である基盤が失われ非難することはできない。私の哲学的立場では人間は神より与えられた善性(精神)と悪性(物質)をもって生まれてくることになる。自己の内に善性が存在する以上、人間は善を選択することが可能なものと考える。醜悪な内部規範を形成した者は善性に従えたのに肉に従ったのである。自由に形成された内部規範の善とするところに従った者は、欲望などの障害を除去した点で自由である。従わなかった者は規範という障害を除去した点で自由である。
 以上より人間は客観的にも主観的にも努力するか怠けるかの選択の自由を有することになる。そして、このような自己の選択と言える内部規範に基づく選択の結果に対して外部規範(法や道徳)から非難を受ければ人間は責任を持たねばならない。

 第3節 真の自由とは
 人間が真に自由であるためには何が必要か。外部的障害や内部的障害がないこと。障害が有ってもそれを乗り越えて自己の目標に接近できる能力があること。自己の選択で自己の目標を設定できることが必要である。
 外部的障害を完全に除去するためには、完全な平等が必要である。すべてにおいて平等であれば、他人は障害となって彼の目標追及を妨げることはないからである。しかし、共産主義の理想とする完全な平等は私の哲学的立場(精神の平等、物質の不平等)では否定される。従って、外部的障害を乗り越える、人間の能力が必要となる。
 自由であるためには、自己の内部にも障害がある。自己の内部規範が法規範を否定するものであった場合、彼は自己の目的追求に際して、社会・国家から否定的評価を受けるであろう。この点から考えると自己の内部規範は力ある外部規範と一致する方が自由であることになる。しかし、力ある国家に盲従することは自己を失い、自由を失って国家の支配に服することに他ならない。合理的な原理・原則に基づく自己独自の内部規範が必要である。このことを表現したものが自由の三つ目の意義・「合理的な理性による支配」と考えられる。
 以上からすると人間が自由であるためには、次のような知性、感性、意志が望まれる。知性が非合理的なものであったとすれば到底事態を正確に認識することはできず、目標からそれるであろう。感性は人間として人倫の根本に則っていた方が非難を受けないであろう。意志は肉の欲望をよく統御しうる方が目標に向かって精進しうるであろう。合理的知性・感性・意志は、真の自由の条件である。
 人間として有する能力(肉体的能力、権力を含む)は大きい方が価値獲得に力となる。能力を獲得するには努力が必要である。努力も自由の条件である。
 徹底した自由を追求し、何にも束縛されない自由を楽しもうとしてもそれには努力が必要である。束縛されない状態では精神的に非常なコストがかかり、それに耐えうる力を獲得するためにはやはり努力が必要である。自由な状態に苦しんで専制支配を受け入れることがありうる。E・フロムのいう「自由からの逃走」である。
 外面的価値ではなく純粋に内面的価値(解脱等)を追及する場合もある。この場合、外部との絆を断ち切り外部からの誘惑を拒絶するとともに、自己の規範にのみ従う強さと勇気が必要となる。自由は決して気楽なものではない。

 第4節 自由と平等の思想
 自由の思想には大きく分けて二つの系譜があると考える。一つが個人主義的自由主義である。目的追求のため束縛の無い状態が必要な個人の自己実現にとって自由は何よりも重要だと考えるのである。その基本的特徴は国家の役割を制限することにより個人の自由を保障し経済的自由もできる限り保障しようとするものである。自由な個人の活動は道徳に裏打ちされたものであることが期待されている。自由に自己の目標を追求できることが自由の本体であるから、個人主義的自由主義に自由の思想の中核があると言えよう。
 もう一つは国家本位的自由主義である。国家を理性的存在とし国家による自由の実現を期待するものである。理性による支配を重視し、個人は国家理性に従うことが要請される。しかし、国家は常に理性的存在であることを保障されていない。欲望の体系である市民社会と家族の止揚としての倫理的国家というへーゲル流の観念を鵜呑みにできないことは歴史が教えている。
 個人主義的自由が本来の自由主義だとすると、個人が社会を構成する目的は何なのであろうか。社会を構成する目的は最大多数の最大幸福にあるとする功利主義の立場は正しい。社会の目的が共通善の達成であることは明らかであるからである。そして、最大限の幸福量の総和は、平等により達成される。なぜなら、効用逓減の法則に従い、少数の人に価値が集中した場合よりも、多数の人に分散した場合の方が価値の効用が大きいため、その総和も大きくなるからである。従って、社会を構成する目的には平等も含まれていると考える。この点は個人主義的的自由主義も承認せざるをえない。自由により生じる他人との摩擦を最小限に押えて自己の目標に到達するには出来る限り平を保障することが最初の条件だからである。
 平等も社会の目的の一つだとして、どんな平等が実現されるべきなのか。平等の実現された階級対立のない社会としては無階級社会・共産主義の理想と、一階級社会がある。無階級社会は空想的ユートピアに過ぎないことは明らかである。歴史の進行につれ特権にしがみつく人々が必ず生まれると考えた方が現実的である。旧ソ連にもノーメンクラトゥーラという特権階級が存在した。
 一階級社会はアメリカの考えである。自由な活動により誰もが資本家となりうることを信奉している。しかし、それは、余るほど豊富な資源を持った若い国の幻想である。数世紀たてば固定化された社会と階級が姿を現すであろう。現在でも階級対立はあるが巧妙に隠蔽されているに過ぎない。参加民主主義が一階級社会を支えてくれるというのも幻想である。参加民主主義は間接民主主義の補完物以上のものではない。一階級社会の限界を本格的宇宙進出が始まったときに無限の宇宙の広がりによって克服できる可能性がある。しかし、自由な活動と資本主義により宇宙に「西部」のフロンティアを越える無秩序と混乱をばらまくことも意味する。
 理想に飛びつくのではなく、漸進的に平等を実現して行く必要性がある。そのためには、まず経済を平等と調和させる「社会化」が図られねばならない。社会化の必要性は科学がユートピアをもたらすなどという考えにより解消されえない。
 この社会化という考えは正当なものである。資本は社会から労働力、社会の共通の成果である技術、共通の財産である資源やインフラを使用して利益をあげている。大資本であればあるほど社会から大きな恩恵を受けている。そして社会はなぜ企業に社会的資源の使用を許しているのかといえば、企業が社会に有益なサービスや財貨を提供するからである。会社や個人が自己のために利潤を追求することは重要である。それが社会発展の原動力となる。しかし、利潤は社会に有益な効果をもたらした結果として、その限度で承認を受けることが社会の原則でなければならない。どうしても金持ちになりたいという心情を抱いた場合でも社会に有益な効果をもたらす限度で受け入れるべきである。
 自己実現のための平等である以上、社会化の中でも自己実現の可能性が保障されていなければならない。しかし、完全な平等による自由(共産主義)が否定される以上、平等を自由と調和させなければならない。平等と調和した自由が最高の自由だとも言いうる。現実の社会の型として共産主義を目指す計画経済の社会主義と市場主義と個人の自己発展の可能性を結合させた資本主義が存在してきた。社会化された経済はこれにとらわれることなく、社会の福祉に適合的に自由に構成されるべきである。現在計画経済はほとんど放棄されている。
 資本主義の背景である自由民主主義は政治的に民主主義を貫徹し、自由を保障しようとする。そして当然のこととして資本主義的市場経済と分かち難く結び付けられ、平等は政治的平等、選挙権と民主主義的政治システムにとどまる。よって社会化の観念は普通含まれない。しかし、民主主義は本来平等の思想であり、経済の社会化の観念を含ませうる。この立場では、民主主義的政治システムまでが市場経済とのアナロジーとさえ考えられる。
 資本主義的市場経済はたいへん効率的であり、力あるものはその中で容易に自己実現を為しうるが、貧富の差や階級対立をもたらす。資本主義的市場経済にすべてをゆだねることはできない。したがって、自由主義と市場資本主義の間にくさびを打ち込む必要がある。
 自由民主主義は社会化を許容し、また必要とするのである。故意に経済の社会化を無視する。資本主義的自由主義を不可欠の原則とし、自由と資本主義を不可分のものとする。このような態度こそが、個人の自己実現の可能性を最大限保障すると言いつつ、自己実現の条件(平等)を奪い去るものにほかならない。

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