哲学の原理の先頭へのボタン 前のページへのボタン 次のページへのボタン 哲学の原理の末尾へのボタン  
★トップページへ


第3章 現実世界

 第1節 人問の生活すべき現実世界
 精神の平等は人間として生きていく上での権利の平等でもある。この権利は理想的、理論的には人類社会に対して持つ権利である。その成員として生存を承認される権利である。人類社会と関係するとき、人間を差別しないことが原理となる。しかし、人間が具体的に属する様々な部分社会に対して持つ権利は、その物質が所属しているから様々な区別を受ける。換言すると、一般に、精神に根拠を持つ権利は妥当する範囲が広く、物質に根拠を持つ権利は妥当する範囲が狭いと言えよう。
 精神に近いほど権利を制限するのが難しいと言える。なぜなら、精神を制約するには精神的原理でなければならず(これは物質の精神支配が認められないことによる)、精神が人間に普遍的に存在するからには、そのような普遍的存在を制約する原理をみつけることは難しいからである。反対に、物質を根拠とする権利は、その根拠とするものの狭さにより、制約する原理を見出すことが容易なのである。
 精神を制約することは難しいが、精神が精神を支配することがありえ、それは現実世界においては人間が人間に命令を下すということである。これは、その関係においては人間が単なる「物」とみなされるからである。権利が生じるためには精神がなくてはならず、物には権利を認めることはできないのである。
 また、精神は理性により義務という制約を受ける。精神の現実世界における姿である人間には、社会が必要である上に、うまれつき人類社会に所属しており、他人と接触して力を及ぼさないなどということは考えられない。社会の中において権利を行使するからには他の存在(社会の前提条件)が自分に権利を及ぼすこと、つまり、義務を承認しなければならないのである。従って、他者の存在の承認が第一の義務となる。
 この義務に反して他者の存在を否定したときは「人類社会」の名によって罰することが望ましい。そして、生命剥奪、すなわち人類社会からの追放は人類社会のみがなしうる。なぜなら、人(国民でも市民でもない)が生まれ落ちるのは人類社会であり、生命剥奪は外のどんな刑罰にも無い人類社会からの追放であるから、人類社会の承認を要するのである。

 第2節 歴史論
 世界を構成する基本的範疇としての精神、イデア、物質を考える。人間にとり認識可能なものすべては、この三つに分類し基礎づけすることができる。そして、歴史とはイデアの現実化である。イデアが精神に宿り、力を持つ存在である人間が物質を改変していくのである。破壊も破壊・再生というイデアの実現化である。精神が物質と結合して出来ている人間が精神活動、認識を行なって、現実世界を媒介としてイデアの世界からイデアを精神に顕在せしめるのである。イデアと物質を精神―人間が仲立ちしつつ、人間が物質を改変していくのである。この際、なぜ、人間がイデアを抱くかというと意志というものを持つからである。すなわち、人間の存在を雄持しようという欲求、これは人間そのものに組み込まれているのであるが、これがイデアを宿らせる力となるものである。生きていくためには現実の改変が必要であり、そのためのイデアが宿るのである。
 このような人間を媒介としたイデア、精神、物質の相互運動により、歴史は全体的に結び付いており、複雑にからみあっており、相互に関連している。政治史、経済史、社会史、文化史等の人間の歴史は孤立的に存在するのではない。
 歴史が展開する現実世界とは外的世界のことである。つまり内的世界に対立するものであり、そこには物質が様々な形(人間を含む)をもって存在している。その物質はイデアを保存するものだと言える。すなわち、イデアは人間の力により現実世界に実現し、人間、言語、文学、芸術等の形をとって実現した形を残すものである。この場合、人間がイデアの実現化であるというのは、遺伝子ということに加えて、認識構造としての人間の中にイデアが定着・内面化するものである。人間そのものが進化の過程の中で一つのイデアの実現物といえる。そして人間存在そのものが、人間関係、その総体としての社会の構造を規制しているといえる。また、制度というものも実現されたものを保存する。
 人間存在という構造がまわりの社会という構造との不整合が大きくなったとき歴史上の革命、変革というものは起きる。つまり、イデアを宿した人間が、変革された新たな考えを抱くようになった結果、現実との摩擦をひきおこすのである。さらに、他の構造と構造の不整合による変革も考えられる。つまり、ある部分の変革によって他の部分が関係を維持していくためには変革されざるをえないのである。これは空間的なものと言えよう。また、イデオロギーというものもある。イデアの現実化したもの、そのものに、歴史の上で現実化されるというイデアとしての力を認めるものである。
 歴史が動くには現実的な力も必要である。そのためには人間が団結することである。団結するには共通の感情、価値観、イデオロギー等を抱くことである。そのためには共通の認識構造を持っていることである。イデオロギーが認識構造となってしまうこともある。また、優れた知性を持つことは、現実世界の構造を正しく認識でき、現実世界に正しく働きかけることが可能となり力となる。また、安定した価値観を持つ感性は価値の充足をもたらし、現実世界の変化に耐えうる力をもたらすと言えよう。意志の力が強ければ、変化を強く推進する力となろう。
 歴史は必然的か。すべてを知りうる神にとっては必然的と言えよう。原理的には歴史上の事実についてはすべて説明可能と言えよう。しかし、能力の限られた存在である人間は一部しか説明できない。人間について意志の自由ということについて言えば、いかなることも決定する可能性を持っているが、認識構造、現実世界の構造によって縛られ、事実上決定する範囲は限られてくると言わなければならない。しかし、その限られた範囲では、自己による主体的な決定ができると考える。その決定をもたらした心も自己により主体的に形成されたものである。すべて説明可能であっても、なお自己による主体的決定が歴史を動かしうる以上、人間にとっては歴史が必然的と断言することはできないと考える。
 そして精神の支配が強ければ、光である精神の導きにより、必然的に歴史は正しい方向に進むであろう。歴史は精神の光に満ちた方向へ向かわねばならない。

哲学の原理の先頭へのボタン 前のページへのボタン 次のページへのボタン 哲学の原理の末尾へのボタン  
★トップページへ