『考古学から見た邪馬台国大和説』書評
(関川 尚功著、梓書院刊)

────畿内でしかありえぬ邪馬台国────



一 考古学から見た邪馬台国問題の基本

 『考古学から見た邪馬台国大和説』で、関川尚功氏は次のような基本的スタンスを採用する。

 高橋健自は、さらに邪馬台国の所在地について、そこは当時の政治・文化的な中心点であり、「……その文化には支那文化の影響が相応にあったことを徴するに足るべき地方でなければならぬ」とし、続けて「……後漢乃至魏初の影響を最(ママ)著しく受けた文化を徴すべき考古学的資料は畿内と九州と何れに多く認められるか。それが判明すればこの問題の第一次解決がつくものであろう」と述べている。この高橋がいう、所在地問題への解決に向けての方法は、今日でも変わることのない考古学的な検討の基本であるということができる。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』12頁)

 高橋健自説は、邪馬台国九州説からすると、

・後漢乃至魏初の影響を最も著しく受けた、大陸との文化交流の中心ならば邪馬台国である。
・北九州は後漢乃至魏初の影響を最も著しく受けた、大陸との文化交流の中心であった。
・よって、邪馬台国は九州に在った。

という主張だと理解できよう。
 『倭の邪馬台国』で展開される邪馬台国=大和国説・ユダヤ征服王朝説から見ると、この高橋健自の「考古学的な検討の基本」は間違っている。確かに、邪馬台国には倭国の首都が在り、倭国の政治的・文化的中心であったことが魏志倭人伝から読み取れる。しかし、政治・文化の中心であることが、大陸との文化交流の中心であることを保証するものでもない。また、文化的中心ということに関しては、邪馬台国の文化が「後漢乃至魏初の影響を最(ママ)著しく受けた文化」である必然性は全く無い。
 邪馬台国の文化は倭国独自の文化であって構わない。弥生時代には銅鐸文化圏と銅鉾文化圏が有った。銅鐸文化圏の中心が畿内で、銅矛文化圏の中心が北部九州であった。北部九州は大陸への玄関口であり、後漢乃至魏初の影響を最も著しく受けた文化であった。一方、北部九州と比較するとかなり大陸から遠い畿内が倭国独自の文化の色を強く有するのは、理の当然である。
 魏志倭人伝に邪馬台国と大陸との文化交流を示す記述があるか見てみると、対海国と一大国が南北に市糴し、伊都国について郡使が往来し常に駐まる所とあるが、『倭の邪馬台国』の立場では、対海国が対馬国、一大国が壱岐国、伊都国が吉野ヶ里であり、いずれも九州の地であって、九州との交流を示すに過ぎず、邪馬台国そのものと大陸との民間文化交流を示す記述は無い。大陸との文化交流の中心ならばそれは邪馬台国であるという関係は読み取れない。
 魏志倭人伝によると、邪馬台国は一大率を伊都国に置いて、北部九州を監察しているが、邪馬台国と北部九州が政治的に関係有るとしても、文化的には異なる文化圏に属していても不思議では無い。
 もしも邪馬台国が九州に所在すれば、後漢乃至魏初の影響を最も著しく受けた文化であろうし、邪馬台国が畿内に存在すれば、倭国独自の文化の色が濃くなるという関係にある。後漢乃至魏初の影響を最も著しく受けた文化を持つ地域であれば、邪馬台国がそこに所在し、倭国独自の文化の色が濃い地域であれば、邪馬台国はそこには所在しないという関係には無い。
 そして、邪馬台国が倭国の政治的・文化的中心であっても、大陸との交流を示す遺跡・遺物が少なくなる特殊な事情が有った。その特殊な事情はユダヤ征服王朝説から導かれるものである。
 したがって、遺跡・遺物から大陸との文化交流の中心と分かるならば邪馬台国であるという関係には無い。すなわち、北部九州と畿内の文化の差は邪馬台国の所在によるものではなく、地理的な差によるものであって、北部九州と畿内の文化の差を理由に邪馬台国の所在地を決めるのは間違っている。
 しかし、邪馬台国の首都が大和国に在ったとすれば、大和国が文化の中心であったことになるが、安本美典氏の言では、冷厳に直視すれば、大和国には「魏志倭人伝」と結びつくような3世紀の遺跡・遺物は砂漠と言ってよいほど存在せず、「邪馬台国=畿内説」の人々は砂漠の中で緑したたる女王国の幻覚を見ているのだと言う(安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』156頁)。
 なぜ、このように不毛なのか。それは、ユダヤ征服王朝説によって説明される。大和国にあった邪馬台国が外部の征服者により征服され、その征服者ユダヤ人がヤマト王権を樹立した上で、邪馬台国の遺構・遺物を湮滅したからだ。征服者はいわくつきのユダヤ人だという出自を隠したかった。征服者が征服者としての出自を隠すために、邪馬台国の遺構・遺物を湮滅したのである。邪馬台国の遺構・遺物を湮滅することにより、人々の意識から征服された邪馬台国が消え、忘れ去られてしまうようにした。ユダヤ人による征服の事実が忘れ去られてしまうようにした。近畿から邪馬台国の遺構・遺物がみつからないのは、征服者により湮滅されたからであり、九州から邪馬台国の遺構・遺物がみつからないのは、邪馬台国が畿内に在ったからである。そして、九州に遺跡・遺物が豊富なのは、倭国を最初に統合した面上王権が九州に在ったからであり、その痕跡の湮滅まで征服者が行わなかったためである。そのため、邪馬台国の位置が謎となっていたのである。
 関川尚功氏は「大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。」(『考古学から見た邪馬台国大和説』69頁)ことを指摘する。
 私の立場からすれば、邪馬台国を征服したヤマト王権により、邪馬台国の首都の在った大和国の銅鐸は徹底的に湮滅された。それにより、大和国が「銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない」という結果になっているのである。すなわちユダヤ征服王朝であるヤマト王権は、その出自を隠すために、征服した邪馬台国の遺跡・遺物を湮滅したが、それは、邪馬台国の首都の在った大和国、自らも首都を置いた大和国において最も徹底して行われたことにより、説明できるのである。
 『考古学から見た邪馬台国大和説』は、邪馬台国に関する考古学的事実をよく説明しているが、その考古学的事実の解釈は、一般の邪馬台国大和説についてはいざ知らず、邪馬台国=大和国説・ユダヤ征服王朝説からすれば、大きく間違っている。


二 鏡の伝世

 関川尚功氏も大和国「そこに邪馬台国の卑弥呼が得た「銅鏡百枚」の影は、とうていうかがうことはできないのである。」(『考古学から見た邪馬台国大和説』72頁)という。そして、関川尚功氏は「邪馬台国大和説の前提条件である、弥生時代の近畿において中国王朝より得た多数の銅鏡が古墳時代まで保有され、占墳に副葬されるという「鏡の伝世」については、とても理解されるものではないであろう。」(『考古学から見た邪馬台国大和説』72頁)ともいう。
 この鏡の伝世という考え方も私の立場からすれば、良く理解できる合理的な立場ということになる。
 小林行雄氏によれば、畿内地方の弥生時代の遺跡からは中国鏡が出土しないが、畿内地方でも早くから後漢代の中国鏡が輸入されていた。しかし、それは共同体の代表者によって保管され、しかも伝世された。伝世されて、弥生時代の間は、埋められたり、遺棄されたりしなかったために、弥生時代の遺跡からは発見されないのである(『古墳の話』55~56頁)。
 この鏡が伝世されたという考え方は、北九州の弥生時代の遺跡から鏡が発見されるのに、畿内地方では弥生時代の遺跡から鏡が発見されず、古墳時代の古墳からよく発見されるという事実をよく説明する。畿内地方では共同体の規制が強かったので、共同体の代表者によって保管され伝世されたということが考えられるのに対して、北九州では畿内地方と比較すると共同体の規制が弱かったので権力者の死と共に埋納されることが多かった。
 古代日本には死穢を忌む風習が強いので伝世は無いとする考えもあるが、個人の持ち物ではなく、共同体の持ち物が伝世されたのであり、個人の死とは切り離して考えることができるので、失当である。しかし、北九州と畿内地方の共同体の規制の強さの違いは比較してのことであって、北九州でも共同体の持ち物が伝世される場合があることを否定するものではない。
 そして、三角縁神獣鏡が伝世されなくなり古墳から発見されるようになったのは、小林行雄氏の主張する理由、ヤマト王権の誕生によるものであった。ユダヤ人である崇神=神武が邪馬台国を征服し、4世紀初頭に倭国の主、ヤマト王権の首長となった。各氏族の首長が宝器の伝世を中絶してヤマト王権に献上するに至った理由は、共同体の束縛から脱却し、ヤマト王権の首長による支持を背景として、国々の支配者に変身しようとしたことに求められよう(小林行雄『古墳の話』62~63頁)。
 加えて、ヤマト王権の支配下において、前代の邪馬台国を記念する鏡は意味を失うと共に、流行遅れとなった。そこで、各氏族は伝世していた三角縁神獣鏡を4世紀以降に古墳に埋納した。小林行雄氏の言うように、首長の地位が、ヤマト王権により強力に保障されることがそのことを可能にしたと言えよう。
 征服に伴って三角縁神獣鏡を手に入れたヤマト王権も当初は戦利品として保管したが、その後、邪馬台国を思い出させる不要のものとして古墳に埋めるなどした。邪馬台国からヤマト王権の時代に変わったことにより伝世されなくなったので、当然、三角縁神獣鏡は4世紀以降の古墳から出土することとなる。また、魏帝からの下賜の経緯を示す銘文を有する鏡は、回収された上、征服者により湮滅された。

そして、伝世鏡が成り立つ条件としては、3世紀代の大和において、大陸より鏡を移入する経路として北部九州地域との密接な関係がなければならない。魏王朝より邪馬台国へ送られる、銅鏡を含む数々の賜物は、すべて北部九州の伊都国を経由しているからである。
 しかし、弥生時代と同じく庄内期の大和においても、大陸ばかりか北部九州との関係がほとんどみられないことは、この時期に伝世されるべき銅鏡が大和へ搬入されていないと考える。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』147頁)


 弥生時代と同じく庄内期の大和においても、大陸ばかりか北部九州との関係がほとんどみられないのは、ユダヤ人征服者が邪馬台国の痕跡を徹底的に湮滅したからである。
 しかし、庄内式土器に関しては、北部九州とのつながりが推定される。庄内式土器は北部九州一円と、近畿地方では、大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から桜井市にかけての地域に分布する。北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、近畿地方では大阪と奈良のかぎられた地域にしか分布しない。この分布からすると、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたと考える方が自然である。
 私は庄内式土器を三世紀卑弥呼の邪馬台国時代のものと考える。卑弥呼を倭国統合の象徴として戴き、邪馬台国が宗主国となって倭国を統合することで、倭国はよくまとまり、倭国内各地の交流が盛んになった。その結果、北部九州発祥の庄内式土器も首都の在る大和国に持ち込まれたと考えられるのである。
 古墳からも庄内式土器が現れるのは、それらの古墳が邪馬台国時代の墳丘墓を再利用して造られたものだからと考えられる。弥生時代の大和国に在った墳丘墓は征服者ユダヤ人により、古墳として再利用されるか、破壊・湮滅されたために、発見されないのである。私の立場からは、弥生時代と古墳時代は截然と分かたれ、庄内式土器は弥生時代に属することになる。


三 大和地域の弥生遺跡・墳墓

 大和地域の弥生遺跡・墳墓の示す傾向を見てみよう。

 西日本各地域の有力な弥生墳墓の在り方をみると、やはり北部九州で最も早く出現し、また銅鏡などの中国製品を持つ副葬品内容も突出して多い。これに次ぐものとして、瀬戸内地方や山陰・北陸など日本海沿岸地方にみられる大型の墳丘墓がある。これらの地域でも「王」と思われる有力な首長の存在が、墳墓により確認されている。このような弥生墳墓による大和と北部九州・西日本地域との比較をみると、その差は歴然としていることが分かる。弥生時代の墳丘墓の存在や、墳墓内の副葬品というものは、その後に出現する古墳とのつながりを考える上で重要なことは当然であるが、それらが弥生時代の大和においては、未だに明らかではないというのがこれまでの実態なのである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』68~69頁)


 結論として、大和国については、「今後の発掘調査においても、有力な首長墓といえるような、大型の、あるいは多くの副葬品をもつ弥生墳墓が見出される可能性は、今のところ考えることはできないといえる。」(『考古学から見た邪馬台国大和説』68頁)ということになる。

 このような大和地域の弥生遺跡・墳墓の示す傾向は他の地方に比べて異常であると言える。その異常を説明できるのが、ユダヤ征服王朝説である。ユダヤ人征服者により、被征服者邪馬台国の遺跡・遺物が湮滅されたたため、このような異常が生じたのである。
 大型の前方後円墳の前段階として、寺沢薫氏命名による「纒向型前方後円墳」がある。纒向型前方後円墳は後円部が楕円形で前方部は低く小さく作られるという特徴を有する。この纒向型前方後円墳は、特に纒向遺跡に在るものは、邪馬台国時代の墳丘墓を再利用したものだと考えられる。邪馬台国時代の墳丘墓・円墳を後円部として利用し、ヤマト王権の時代に低く作られた前方部を追加するなどして工事するのである。このために、纒向型前方後円墳からは、邪馬台国時代の庄内式土器とヤマト王権時代の布留式土器の両方が出土することがある。
 関川尚功氏は言う。

 今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。
 その一方で、北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』141~142頁)


 北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのに、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にあるのは、異常である。大和地域には、大規模環濠集落や纒向の大規模遺跡が存在するのに、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にあるのは、異常なことである。この異常さを説明するのがユダヤ征服王朝説である。外来のユダヤ征服王朝ヤマト王権が、その出自と土着の邪馬台国を滅ぼして成立したことを隠すために、大和国に中心が在った邪馬台国の遺跡・遺物を湮滅したから、大和地域の弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にあるのである。


四 大陸系遺物

 さらに、最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』67頁)


 中国製青銅製品については、大和国は元々、地理的に北部九州よりも遠いので、少ない傾向にある上、中国製銅鏡は伝世されたし、遺跡に遺るはずだった遺物としての中国製青銅製品は邪馬台国の痕跡として征服者ユダヤ人により徹底的に湮滅された。


五 鉄器

 また、鉄器の出土も周辺地域に比べるとかなり少量であり、青銅器自体の出土や、その生産遺跡も近畿の中で特に多いということはない。大和の大型遺跡が規模や安定性を保っている反面、大陸や西日本から及ぶ数々の遺物などの受容については、近畿の中でも特に少ない傾向にあるといえよう。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』67頁)


 私の邪馬台国=大和国説は、邪馬台国の首都が邪馬台国にあったとし、邪馬台国を中心とする邪馬台国連合は畿内全域に及び、その邪馬台国連合の中で分業が行われ、首都の在った大和国以外で金属器の生産が行われていたとしても不思議では無い。そして、北部九州との比較の上、大和地域、あるいは近畿中部の出土鉄器の少なさについては、卑弥呼の時代、三世紀には、大和地域、あるいは近畿中部では、鉄が豊富では無く貴重だったので、その多くは、リサイクルされて四世紀に持ち越されたのだと考えられる。
 安本美典氏は指摘する。「魏志倭人伝」記載の事物で、考古学的に調査、検証できる刀、矛、絹、魏晋鏡、勾玉などは、圧倒的・規則的に北九州から出土している。「魏志倭人伝」には、倭人は鉄の鏃を使うと記している。鉄の鏃出土数は、福岡県が奈良県の約百倍近い(安本美典『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』212~213頁)。
 この問題については、次のように考える。鉄の鏃の出土数が奈良県に少ないのは、征服者が邪馬台国の存在した奈良県をそのまま本拠地にしたからである。本拠地に近いところにある使用された鉄の鏃は容易に集めることができ、その集めた鉄の鏃を本拠地外の戦争等で再利用した。戦地は畿内ではなかった。また、大和が戦場となった邪馬台国の征服戦も短期間で終了した。その他の鉄製の武器についても、ヤマト王権が弥生時代の物を古墳時代にそのまま利用もしくは再利用したと考えられる。その後、鉄が豊富になるとともに国内が平和になったので古墳に埋納された。
 これに対し、北九州は材料調達に太いパイプを有していた。材料を豊富に入手できるので、再利用を行う必要性があまり無かった。北九州の弥生文化の特徴が武器類と鏡類と玉類のセットであり、北九州ではこれらが大事にされるとともに、埋葬と同時に墳墓に埋納されたので、刀、矛、魏晋鏡、勾玉が豊富に出土する。絹が北九州中心に分布するのは、九州産の絹が朝鮮半島への貴重な輸出品であったため、北九州に累積した。征服者は一時的に北九州を本拠にしただけで畿内に本拠を移したので、北九州では、征服に伴う破壊はもちろんあったが、征服者による遺構・遺物の湮滅が徹底的に行われることは無かった。


六 古墳時代

 邪馬台国大和説においては、邪馬台国と箸墓古墳などの大和の大型古墳が連続することになる。このため、大和説では今や古墳の出現時期が遡らないと成り立たないという、重要な要件になっている。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』137頁)


 私見の邪馬台国=大和国説では、弥生時代に既に円墳は見られたが、古墳時代の画期をなす前方後円墳が見られるのは、四世紀前半となる。すなわち、私見の邪馬台国=大和国説では、三世紀は弥生時代、古墳時代前期前半が四世紀前半、古墳時代前期後半が四世紀後半、古墳時代後期が五世紀となる。

 箸墓古墳が最古の大型前方後円墳となった今日でも、奈良時代に編纂された『日本書紀』において、築造の伝承が伝えられているような古墳が、はたして3世紀まで遡るものかという疑問は当然残るのである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』138頁)


 新日本書紀研究によれば、前方後円墳として箸墓古墳が築造されたのは、三一〇年である。しかし、私見では、それは、三世紀築造の卑弥呼の墓であった円墳を前方後円墳に改造して造られたものであったと考える。奈良時代に編纂された『日本書紀』において築造の伝承が伝えられている箸墓古墳は、こうして三世紀まで遡れることになる。
 私見では、三世紀は古墳時代では無い。卑弥呼の邪馬台国の時代である。


七 大和国の卓越性

 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』147~148頁)


 大和に在った邪馬台国の対外交流や文化内容の卓越性は、ユダヤ人征服者により湮滅された。ユダヤ人は北部九州にまず達して上陸したが、長く駐まることはなく、畿内に在った邪馬台国の征服へ向かったので、北部九州の遺跡が湮滅されることは無かった。その結果、北部九州に在った邪馬台国以前の倭王権の遺跡・遺物がそのまま遺されたので、北部九州の遺跡・遺物は豊富なのである。また、地理的に見ても、北部九州は大陸との窓口、表玄関であり、大陸との交流の遺物が多く有って不思議では無い。

 この庄内式の終わり頃には、北部九州においても大和・河内の庄内式土器が他地域の土器と共にみられるように、ようやく近畿中部と北部九州との交流関係がうかがえるようになる。このような流れの中で、纒向遺跡では鉄器製作技術が受容され、その生産が始まったものといえよう。この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。これまで北部九州との接点が、ほとんどなかった纒向遺跡において、この時期に至り、かつての奴国より、ようやく鉄器生産技術が到来することになったわけである。博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡にまで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。
 それは庄内期に始まる地域間交流が要因であるが、そのような時代において、纒向遺跡では奴国域より鉄器生産技術の供与を受けるなどということは、邪馬台国大和説においては考え難いことであろう。大和地域、あるいは近畿中部の出土鉄器の少なさについては、北部九州との比較の上、鉄器に関わる研究者からたびたび指摘されてきたところである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』149~150頁)

 私見では、卑弥呼の時代、大和国を中心とする邪馬台国連合は倭国を支配し、北部九州をも支配していたので、纒向遺跡では奴国域より鉄器生産技術の供与を受けるということは当然、起こりうることである。
 北部九州との比較の上、大和地域、あるいは近畿中部の出土鉄器の少なさについては、卑弥呼の時代、三世紀には、大和地域、あるいは近畿中部では、鉄が豊富では無く貴重だったので、その多くは、リサイクルされて四世紀に持ち越されたのだと考えられる。


八 倭国連合・西日本地域の統合

 このような庄内甕の動きからみると、これまで顕著な卓越性がみられなかった大和の状況が大きく変わるのは、庄内式も末期の頃という、かなり新しい時期のことで、それは箸墓古墳の造営が始まる頃のことになる。
 この段階まで下らないと、大和から他地域への強い影響力が及ぶことはないというのが、庄内式土器の動向からみた大和地域の実態なのである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』156頁)


 私見によれば、三世紀の卑弥呼の時代は邪馬台国を中心として寛かに倭国が連合してまとまる状態だった。それがユダヤ人の邪馬台国征服により、四世紀に入ってヤマト王権が成立した。そのヤマト王権は征服王朝として強力な古代国家だったから、大和から他地域への強い影響力が及ぶようになったと説明できる。

 邪馬台国大和説が成立するには、西日本地域、少なくとも近畿から北部九州までの統合化が達成されていることが前提となる。
 庄内期のような、未だ弥生後期と変わらぬ強い地域性が各地にみられ、ようやくそれらの地域の間で交流が始まるような時代に、大和から北部九州に至る広域なまとまりがあったとは、とても考えられない。この段階に至っても、未だ近畿大和の優位性をうかがうことのできないという古墳出現前段階の大きな社会動向は、邪馬台国大和説では、とうてい理解することはできないであろうし、「魏志』が伝える邪馬台国と、それをめぐる時代状況とは全く異なったものであるといえよう。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』157頁)


 私見によれば、三世紀の卑弥呼の時代は邪馬台国を中心として寛かに倭国が連合してまとまる状態だった。その中での邪馬台国の優位を示す遺跡・遺物は邪馬台国を征服したヤマト王権が湮滅した。なので、今の考古学の上からは、三世紀に至っても、未だ近畿大和の優位性をうかがうことができないということになっているのである。


九 狗奴国との抗争

 卑弥呼の時代は、魏王朝との頻繁な通交関係とともに、狗奴国との抗争が大きな出来事とされている。この狗奴国との関係というものは、隣接する国々の間における争いであり、限られた地域の中の問題である。中国王朝との明確な通交関係がみられず、列島内の地域間の交流が進むような庄内期と同じ時代のこととは、とても考えることはできない。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』157頁)


 関川尚功氏は、狗奴国との抗争が中国王朝との明確な通交関係がみられず、列島内の地域間の交流が進むような庄内期と同じ時代の邪馬台国の事とはおもえないという。私見では、狗奴国は熊襲のことであり、熊襲が倭国に入るのは、四世紀半ば、景行天皇の時代のことである。それ以前の卑弥呼の時代の倭国連合と熊襲に問題が生じても何ら不思議では無い。


十 ヤマト王権の成立

 このような邪馬台国との時代状況の大きな違いをみるならば、庄内式にみる汎日本的な、統合化に進む大きな動きというものは、3世紀中頃の卑弥呼の時代よりも、さらに後の時代のこととみることができよう。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』158頁)



 私見では、庄内式末期からの汎日本的な、統合化に進む大きな動きというものは、四世紀元のユダヤ征服王朝ヤマト王権の成立によるものである。しかし、その前も、大和国に中心を置いた邪馬台国の求心力は働いていたが、その痕跡となる遺跡・遺物はヤマト王権により徹底的に湮滅されたのである。


 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纏向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国と同時代の箸墓古墳や纏向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』158頁)



 私見でも、前方後円墳としての箸墓古墳の造営が始まり、纏向遺跡が最も拡大化すると見える庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、四世紀に入ってからのことであろう。しかし、円墳としての箸墓古墳、庄内式末期に至る前の纒向遺跡は邪馬台国時代のものである。


 このように考えると、魏との通交や狗奴国との抗争がみられた3世紀の卑弥呼の時代以降、中国王朝との通交が途絶え、中国が動乱期に入った時期の列島内において、かつてなかった規模の各地域間の交流関係が始まった。その最終的な帰結として、大和における箸墓古墳の出現と、各地における前方後円墳及び布留式土器の広がりにみるような、歴史的な画期となるという流れが理解できるのである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』159頁)



 魏との通交や狗奴国との抗争がみられた三世紀の卑弥呼の時代以降、中国王朝との通交が途絶え、中国が動乱期に入った時期の列島内において、かつてなかった規模の各地域間の交流関係が始まったのは、ユダヤ征服王朝、ヤマト王権の成立によるものである。成立したヤマト王権が大和における箸墓古墳の出現と各地における前方後円墳及び布留式土器の広がりをもたらした。


 これを図式的にみると、北部九州から始まり、主に西日本、そして近畿と順次段階的な文化の波及状況を考えることができる。その近畿の中でも、地理的にやや閉鎖的な位置環境にある邪馬台国時代の大和は、内容的には北部九州と比較できるようなものではない。
 邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』160頁)


 北部九州が倭国の大陸との窓口、表玄関であり、北部九州から文化が波及していったことはその通りである。だとしても、畿内が政治的優位と独自の文化を持つことは可能である。その独自文化の考古的痕跡はユダヤ征服王朝、ヤマト王権が湮滅してしまったのである。

そして「纒向」といえば「日本書紀』にみえる、垂仁・景行天皇の宮である「纏向珠城宮」・「纏向日代宮」の存在が想起される。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』161~162頁)


 垂仁・景行天皇の宮が「纏向珠城宮」・「纏向日代宮」であるように、ユダヤ征服王朝ヤマト王権は征服した邪馬台国の首都を自らも首都とし、邪馬台国時代の首都の痕跡は湮滅したのである。


十一 邪馬台国=大和国説が依拠するところ

 このようにみてくると、これまでの考古学による邪馬台国大和説が依拠するところは、一体、何かということになる。
 その主な根拠をみると、古くは古墳出土の三角縁神獣鏡を伝世の魏鏡として扱い、また近年では、古墳の出現年代が3世紀に遡ることなどである。この古墳年代遡上説は、先にふれたように新しい見解ではなく、古墳の年代が検討され始めた初期の頃の説に戻るにすぎないということである。
 これは、かつて大和説において邪馬台国の地と推定された「三輪山に近い大和平野東南部」にある纒向遺跡が、再び邪馬台国と関連づけられることと同じ動きである。
 箸墓古墳や現崇神陵などの大和の前期大型古墳の出現基盤を、さらに邪馬台国時代の大和に求めたことが大和説の根底にあったわけだが、大型古墳出現前までの纒向遺跡や庄内式土器の実態というものは、未だこの地域の優位性を示すようなものではないことは、先に述べたとおりである。これら邪馬台国大和説の主要な根拠というものをみていくと、それは3世紀代の大和の墳墓や遺物などではなく、4世紀の大型古墳とその副葬品が根拠とされていたということになるのである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』164~165頁)


 私の邪馬台国=大和国説は、古墳出土の三角縁神獣鏡を伝世の魏鏡として扱うが、古墳の出現年代が3世紀に遡ることは無い。古墳時代は4世紀に始まる。纒向は邪馬台国の首都が在った地であり、そこに、初期ヤマト王権も都を置いた。そして、ヤマト王権は邪馬台国時代の遺跡・遺物を湮滅した。箸墓古墳や現崇神陵などの大和の前期大型古墳の出現基盤は、邪馬台国ではなく、北部九州から来て、邪馬台国を征服したヤマト王権である。
 すなわち、私の邪馬台国=大和国説の考古的根拠は、ユダヤ征服王朝説である。征服者ユダヤ人が自分の出自と土着の邪馬台国征服という都合の悪い事実を隠すために、邪馬台国の痕跡となる遺跡・遺物を湮滅したという主張である。その湮滅行為の結果、大和国には、三世紀の目覚ましい遺跡・遺物が見られないのである。


十二 魏志倭人伝行程の読み方

 邪馬台国は「会稽・東冶の東」とされているのである。現実の地理状況からみれば、この地域は半島南部以南、九州北端から南西諸島までの呉に面した所ということになる。これらの使者は、この海域を南北に往来し、魏を脅かしていたことになる。邪馬台国大和説であれば、近畿なり東海地域は「会稽・東冶」ともかなり離れ、呉の方面とは地理的にはむしろ正反対の方向になる。このような遠方に、魏が呉との対抗上、特に重視する邪馬台国が所在するはずはないであろう。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』171頁)


 魏国は倭国王に「親魏倭王」の称号を与え、朝鮮半島の諸国と比較して非常に厚遇した。吉村武彦氏によれば、その理由は、呉国の東方にある倭国を優遇し、呉国への対抗策としたからだと言う(吉村武彦「考古学だけでは不十分」『研究最前線邪馬台国』112~113頁)。
 このことが呉国に近いと報告した理由となる。倭国が呉国に近いと利用価値が高くなる。魏国は、具体的に、倭国を利用しての呉国への対抗策を考えたのではないだろうか。魏国の中枢の権力者ないしその取り巻きがその策を考えた。その策に基づいて、帯方郡使が倭国に派遣された。帯方郡使には倭国の地理を詳しく報告することも求められた。
 伊都国まで行った魏の使節は、真実の地理を知りながら、その策に沿った報告をした。使命を無事果たすため、自分達の価値を減じないため、中枢の権力者におもねるなどするためだ。また、魏軍を倭国に派遣して呉を攻撃するわけではないので、正確な里程を書かねばならないわけではなかった。そのため、報告書には、方向などの改定をした跡が残った。但し、真実の情報も多く含まれていなければ、単なる虚偽文書になってしまう。よって、改定をするのは、「倭国が、南の遠方にあり、呉国の東の近いところにあるので、呉地に出兵できる」という政治的主張をする


 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』177頁)



 ヤマト王権が太宰府に政庁を置いて、大陸との窓口としたように、魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国が地理的に邪馬台国とはかなり遠隔の地にあることは十分考えられることだ。


 北部九州において、奴国以上の遺跡の存在が考え難いということは、近畿大和においても、同じことという以上に、さらに不可能なことになるのである。 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』179~180頁)


 弥生時代の環濠集落跡や纒向遺跡、それらがヤマト王権による邪馬台国の痕跡の湮滅作業を受けたものであること、それに邪馬台国連合が少なくとも畿内を領土としていたことを考えれば、邪馬台国=大和国説からは奴国をはるかに超えるという大遺跡「七万余戸」が畿内に比定できる。


十三 倭国の歴史

 弥生時代における中国・漢王朝との関係は、中国史書が示すところと共に、これまで北部九州において出土した「金印」を始め、墳墓出土の壁や多数の銅鏡など、漢代の考古資料に明らかである。このような中国王朝との国レベルの直接的な関係を始め、間接的な文化の波及と受容においても、古代中国の存在というものは、日本の古代社会において多大な影響を及ぼしている。この邪馬台国の問題も、歴代の中国王朝や中国文化というものに対し、どのように対応してきたのかという、日本古代史の根本にかかわることであるといってよい。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』174頁)


 だから、倭国を最初に統合したのは北部九州の奴国だった。その後、覇権は邪馬台国に移った。

古代史家の平野邦雄は、3世紀の段階で朝鮮半島の韓族が小国分立の状態にあるとき、倭のみが畿内ヤマトによる統合を遂げたはずはない、という白鳥庫吉・橋本増吉の説についてふれ、さらに、「これらの学説は、明治、大正時代にすでに唱えられていた古典的な学説であるが、現在でも古代史学の中枢にある。これを覆すには、それなりの説得性のある実証をともなわなければならない。」と述べている(平野邦雄『邪馬台国の原像』)。
 また、東洋史家の和田清(1890~1963)も、邪馬台国の頃の極東アジアでは夫余・高句麗だけがわずかに統合的形成を作りかけていたが、ほかはその域に至らずとし、その中で日本のみが独り統一しているはずはないとする。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』183頁)


 私の魏志倭人伝の解釈によると、魏志倭人伝には様々な倭国内の国名が出てくるが、それらを北部九州から関東西部までのものと分かっている古代の国名に比定でき、それらを合わせたものが倭国連合の領域だと考えられる。その倭国連合の統合を象徴する存在が倭女王卑弥呼である。
 「邪馬台国の頃の極東アジアでは夫余・高句麗だけがわずかに統合的形成を作りかけていたが、ほかはその域に至らずとし、その中で日本のみが独り統一しているはずはない」というのは日本が極東の辺地にある小国だという考えが根にあり、近頃認められるようになってきた縄文文化の先進性を考えれば、偏見だと言わざるを得ない。


十四 北部九州の弥生文化と近畿の前期古墳文化との連続性

 しかし、考古学による邪馬台国の解明においては、その所在地と共に、さらに大きな問題がある。それはかつて、中山平次郎がしきりに唱えた、北部九州の弥生文化と近畿の前期古墳文化との連続性という考古学的事実である。大和の前期大型古墳では、銅鏡や腕輪形石製品の多量副葬など、中山が指摘した事実が今日に至ってもさらに事例を加えており、その関連性はもはや疑いえないからである。
 けれども、中山が提起したこの問題については、これまで考古学、特に邪馬台国大和説からの見解というものは、全くといってよいほどみることはできない。それが邪馬台国問題の核心であるにもかかわらず、大和説ではとうてい説明ができるものではないからであろう。
(『考古学から見た邪馬台国大和説』185頁)


 私の立場では説明できる。北部九州にまず、上陸したユダヤ人は北部九州を第一に征服し、北部九州の弥生文化を身に付けた。その征服者ユダヤ人が征服した畿内に在った邪馬台国に北部九州の弥生文化を持ち込んだ。そのため、北部九州の弥生文化と近畿の前期古墳文化との連続性が見られるのだ。


十五 邪馬台国=大和国説・ユダヤ征服王朝説から見た大和国

 私の邪馬台国=大和国説・ユダヤ征服王朝説から大和国の状況を説明しよう。三世紀は弥生時代であり、庄内式土器の時代であった。倭国の首都は卑弥呼の居た大和国の纒向に在った。卑弥呼の時代、倭国は卑弥呼を象徴として北部九州から西関東まで寛かによくまとまり、各地の交流が盛んになり、各地の土器も移動した。纒向には卑弥呼の宮殿が在った。三角縁神獣鏡は貴重な伝世の鏡として保存された。銅鐸は弥生の祭に祭器として使用された。この時代に卑弥呼の墓である大円墳が造られ、様々な墳丘墓も造られた。
 三世紀末に、北部九州に征服者ユダヤ人が上陸し、北部九州を征服した。その後、倭国連合の宗主国邪馬台国を征服し、ヤマト王権を樹立し、纒向に都した。征服者ユダヤ人は自分達の出自と土着の王国である邪馬台国征服という都合の悪い事実を隠すために、邪馬台国の痕跡を湮滅した。それは、邪馬台国の首都が在った大和国では徹底的に行われた。弥生時代の墳丘墓は、古墳に改造されるか、破壊された。銅鐸は収公を受け湮滅された。三角縁神獣鏡は不必要な物になり、古墳に埋められた。征服者は前方後円墳と布留式土器という新しい文化を産みだした。



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