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「新しい幸福の原理」の第2章から後を含む全体は、電子本「倫理解明」に掲載されています。
電子本「倫理解明」では第3章の標準規範に修正を加えました。





電子本「倫理解明」
           ─新しい幸福の原理─        

著作者・著作権者 久保田英文(救世国民同盟代表)
販売元 でじたる書房
価格¥500(税込)

2007年5月18日に電子書籍店「でじたる書房
から発売開始になりました。
(発売のジャンルは「教養 / 人文・心理」です。)


この電子本に収録した「新しい幸福の原理」などは、
新たに整理と追加と推敲を施した最新版であり、
「まえがき」と「あとがき」を書き下ろして、読みやすいようにまとめました。
また、カラー写真を挿入してビジュアルを良くしました。


てじたる書房の「倫理解明」の頁はこちらです。


内容紹介

欲望を肯定し、快適さを追及する現代社会。
倫理・道徳は忘れ去られようとしている。
しかし、倫理・道徳は社会の調和を守って人間の幸福を増進するものではなかったか。
封建道徳を復活させることはできないが、
倫理・道徳が喪われる前に確固たる現代的基盤を与えて、社会と人間の幸福を守りたい。
人間の理想を回復したい。
そのような願いから、この論考は生まれました。
この論考では個別の倫理的問題に解答を示すと共に、
倫理・道徳に基礎を与える理論の一つの新しい形を提示できたと考えています。
現代社会の荒んだ現状に対する良薬となれば、うれしく思います。

2007年5月発売電子本「倫理解明」抜粋

★まえがき
目次
★第1部 新しい幸福の原理
◆はじめに
◆第1章 客観的倫理
◆第2章 幸福から見た倫理的問題
◆第3章 標準的規範
…………
 カントは『人倫の形而上学の基礎づけ』で、「みずからを真に幸福にするものが何であるかを、何らかの原則にしたがって十分確実に突きとめることができない」と言う。
 確かに具体的幸福が何かは人により様々である。だから、人は生きて行く中で実存的決断をして価値を選び取らねばならない。そのため、私的行為においては自己の幸福追求を原則的に許した。
 私的行為においては、他者の幸福と両立しえない場合よりも、両立しうる場合の方が、より他者の幸福に配慮しなければならないようになっている。その理由は自分と他者の幸福が両立しえない状況で自己犠牲を命じるのは人間の自然の傾向から見て難しいのに対し、両立しうる場合は他者の幸福への配慮が、より容易になるからである。
 また、他者と関係しない場合が場合分けされているのは、製造物責任や環境倫理に配慮したためである。
 「精神の原理」とは、哲学的省察からすると価値には位階があり、位階の中で上位の価値が優先されることを指す。例えば、満員電車の中では、心臓病の人のペースメーカーに対する影響を考えて、自己の経済的利益を犠牲にして携帯電話の利用を避けなければならないといった場合である。また、子どもの権利条約で述べたことも精神の原理が働く一例である。この価値位階の例としては、現象学者、マックス・シェーラー(Max Scheler 1874-1928 ドイツの哲学者)が理論的に導き出したものが参考になる。

a.快適・不快適の価値の諸系列。
b.生命的感得作用がとらえる諸価値の総体。
c.精神的諸価値の領域。
d.聖と非聖の対立が包括する価値系列。

 同レベルの価値の間では精神の原理はどう働くか。脳死と臓器移植に関して、識者の意見は人の命は地球よりも重いから、人の命の重さを量る違法性阻却事由にはなじまないというものである。しかし、正当防衛でも明らかなように法は生命の重さを量って一方に否定的判断を下す場合がある。そして、人一人の命が地球よりも重いというのは、精神論というか、感情論に近い。ギリギリの具体的場合においては、百人の命が一人の命よりも重くなるのである。一九九六年一二月に起こったペルー日本大使館人質事件が一九九七年四月に平和的解決ではなく、武力で解決されたように。人一人の命が地球よりも重いと言ってすませていられたのは日本があまりにも平和だったからである。
 公的行為で「最大多数の最大幸福」という用語を使ったのは、スローガンとしてはもっともだからに過ぎず、功利主義の立場を肯定するものではない。大まかに言えば、価値の対立の場面では精神の原理に従い、価値の分配の場面では正義に従うことを指す。
 この標準規範が狙うのは、自己の幸福追求と他者の幸福追求の間の調整である。根本法則に従うと、自己犠牲は高い道徳的価値を持つであろう。しかし、今日自由な幸福追求が原則の中で、常に自己犠牲を求めることはできない。原則的に自由な幸福の追求を認めねばならない。しかし、その過程で他者の幸福を損なうことを放置する訳には行かない。そこで、私的行為においては自己の幸福追求を原則としつつ、他者の幸福の配慮を求めるのである。一方、公的行為においては自己の幸福追求は後退せざるをえない。
 そして、カントは、他者の幸福とともに「自己の完成」を義務である所の目的としているが、実存的な自己の幸福追求を認める中で、人格的完成を押し付けることは望ましくないと考え、標準規範に取り入れるのは避けた。
 このような立場に立つとして、具体的な行為はどのような場合に非難可能なのであろうか。ある人が、ある意思に基づいて、ある行為をして、ある結果が生じた、場合について1〜8に場合分けして考察する。この場合の善・悪は私見に立つものとする。
 私的行為の場合、意思が善ならば原則として非難可能性は無い。意思が悪であれば、行為や結果が善であっても非難可能である(5〜7の場合)。倫理は具体的場合において善意に基づく行為を要求するものだからである。
 しかし、2の場合、悪い結果が容易に回避可能であったのに見過ごした場合には非難可能となる。この点については、マックス・ウェーバー(Max Weber 1864-1920 ドイツの思想家)の「責任倫理」の考え方を考慮すべきである。責任倫理とは、「行為に際してそれが現実に行われる場の人間の平均的欠点を計算に入れ、その行為の結果をあらかじめ可能なかぎり予測し、結果に対する責任を考慮に入れる立場」である。
 3の場合、行為だけが悪であるが、行為が社会の規範意識に与えた衝撃の度合いが大きい場合には非難可能となることもある。
 4の場合、悪い行為から悪い結果が生じるのは蓋然的であるから、善意なのに悪い行為を採用することが回避可能であったかの問題が生じる。
 公的行為の場合も意思が悪であれば非難可能である。しかし、意思が善であっても結果が悪であれば(2と4の場合)、非難可能である。公的立場においては他者の幸福を結果的に実現しなければならないからである。心情で善悪を判断しがちである日本においては、結果責任を掲げる必要があると考える。
 全体主義は自己犠牲を絶対とする原理に基づき、公的行為の場合においても、2と4の場合を非難可能性なしとするものだと考えられる。
 以上の《幸福の原理》はカントの言う、道徳を廃棄する幸福主義では決してない。《幸福の原理》の基礎となる、「他者の幸福」自体をカントは「義務であるところの目的」として認めている。このことからも分かるように、自分と他者の幸福は、人間の尊厳から導き出せるものであり、人格性の原理が究極の根拠となっている。そして、カントは、「自己の幸福」について、幸福追求は人間の自然の本能だから義務とするまでもないとしているに過ぎないのである。
 既述のように私の考えている規範は客観的な幸福の体系としての道徳であり、標準的規範に従うということは客観的法則に義務として従うことであり、道徳の純粋性は保たれる。
 道徳の本質は内心にあるという立場も守っている。「幸福主義は、結果を顧慮せず義務を命じる理想主義に反し、行為の結果を重んずる」という一般の批判もあるが、非難可能性の本質を意思に求めているので私見には妥当しない。公的行為においては、意思が善であっても、結果が悪であれば、責任を認めるが、それ以外は意思の善悪で非難可能性の有無が決まるので、なお、道徳の純粋さは失われないと考える。カントが否定した幸福の原理・幸福主義=イギリス功利主義とは違う。
 それでも、カントは道徳を幸福よりも優先して目的の国へ行こうとしていたのではないかという批判が考えられる。カントは『純粋理性批判』で、「純粋な、しかし実践的な理性の指示に従ってわれわれがぜひともそこへ移り行かなければならない世界がある。その世界では理性的存在者がそれによって幸福に値するものにされる道徳性と厳密に調和した幸福のみが、最高善を構成するのである」と言っている。しかし、地獄の住人には倫理が期待できないのだから、幸福の基礎の上に道徳を打ち立ててもよいのではなかろうか。
…………
◆第4章 生命倫理
◆第5章 環境倫理
◆第6章 価値の権力
◆第7章 幸福の基礎
◆第8章 補論-
◆終わりに
★第2部 正義論
★あとがき


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