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はじめに

 大世紀末である。価値は混乱し、男は女に、女は男になり、中学生が小学生を殺して、その首を校門に置く。このような状況下では、社会を進歩させてきたとされる人権、自由、デモクラシーは無力である。責任のない自由一般は価値の混乱を増大させている。政治制度としての人権主義、自由主義、民主主義は何の対策ともなりえない。これらは、内部規範を持った自律的個人を前提として機能するものであるのに対し、現在は人間が確固とした内部規範を失っている時代だからである。
 日本は、恥の文化、他からの視線を気にする文化である。母親が子供を叱るときに、「○○さんが見てますよ」と言うように、他人の視線が行為の準拠となる。自律的個人が支配的であったことはない。日本の全体主義は、恥の大元締めである「お上」が音頭取りをしてファシズム・スターリニズムの時流に乗ろうとしたものであった。戦後、お上は変化させられ、人権、自由、民主主義を奉じるようになり、個人は自由を得た。しかし、恥の文化は変わらず、自由な個人の行動を他者の視線が掣肘し、伝統社会に由来する共通の道徳的感情が支配し続けた。そのため、擬似的に自律的な個人が多数を占め、社会はうまく機能してきた。
 しかし、自由主義プロパガンダが功を奏し、他者の視線からも自由であろうとする動きが強くなった。また、時の経過とともに権威的視線も失われていった。ここに、より所を喪失し、浮遊する原子的個人が支配的になりつつある。街頭では、他人の困惑を自分の存在証明だと思い込み、人前で平気でいちゃつく恋人たちが見られる。気概のあった明治人なら絶対にしない行為である。そして、安全を誇った日本社会を悩ませる凶悪な犯罪の増加。なぜ悪いことなのか分からなくなっている。物質文明としての日本は成功した。一応近代化は終わった。しかし、心の貧しさは明らかで、確固とした内部規範を持った自律的個人は少ない。
 自然な道徳感情が失われ、倫理の基本が問われるような時代になったのである。基本的倫理を軽視して欲望を解放し、人としての道を無視する社会がいいのか。自由を徹底した社会の行く着く先がこれである。男が女になり、女が男になり、家族は崩壊する。
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