幸福の原理の先頭へのボタン 前のページへのボタン 次のページへのボタン
★トップページへ

第一章 客観的倫理

 日本人は伝統的に普遍的規範を持たなかった。それを補っていた共同体内の視線や自然の道徳感情が失われつつある。その結果、倫理についての説得的で基本的な説明が必要となってきている。基本的倫理に原理的基礎づけを与える必要がある。まず、想起される原理は、カントの人格性の原理である。
「汝の人格の中にも他のすべての人の人格の中にもある人間性を、汝がいつも同時に目的として用い、決して単に手段としてのみ用いない、というようなふうに行為せよ」
これが、否定しえない倫理の根本原理であることは間違いないと考える。
 また、イエス・キリストの山上の垂訓に由来する黄金律もある。
「すべて人にせられんと思うことは、人にもまたそのごとくにせよ」
これら倫理の根本法則は人間に多くを要求し過ぎる傾向がある。その結果、これらを目標にして道徳的向上を図ることは半ば放棄され、倫理は地に堕ちようとしている。
 では、価値の混乱はどうやっておさめるのか。恥の文化を再構築すべきなのか。恥の文化には限界が存在する。他者の視線が存在しない所では規範が機能しない。海外旅行に出掛けた日本人が恥のかき捨てをするように。それに、他者の態度が重要なので、大勢に抵抗できないことになる。周りの人がみんなしているなら、自分も同調することになってしまうのである。こうした欠点が存在する上に、視線の正しさを保証する権威が失墜してしまった。価値の混乱は権威の失墜でもあった。同志的倫理を提供するマルクス主義は崩壊したし、伝統的権威は機能しないし、自由主義は自由の権利を強調するばかりで倫理を後押しするようなものではない。
 このような中で、幸福を原理として標準的規範を樹立したい。なぜ、標準的規範かと言えば、根本法則の提示する究極の目的は高すぎるので、現実的な目標を示して道徳的向上を促したいからである。なぜ、幸福を原理とするかと言えば、人間自体の目的はいざ知らず、社会を構成する目的は社会の成員の間の幸福にあるからである。また、人格性の原理から導かれる規範は、カントが、『人倫の形而上学』で、必ずなすべき完全義務として虚言や卑屈、高慢などの態度を戒めているように、現代社会の現実からはピントがずれてしまうからである。幸福の概念を中心として現代社会に適合した倫理を生み出したいのである。このようなことを考えたのは、カントが「義務であるところの目的」として「他者の幸福」を認めていることを知ったからである。
 しかし、同時にカントは明白に幸福の原理を否定している。私は、カントの言う幸福の原理とは違う《幸福の原理》の可能性を示したい。カントが幸福主義を否定したのは、幸福になれなければ義務を実行しないというようになること、道徳の純粋さが失われることを恐れたからである。
 しかし、一般的に反論不可能な、幸福を目指す体系として倫理規範が定礎され、それが、普遍的な規範として受けいられれば、カントの懸念は当てはまらないと考える。なぜなら、客観的な規範となれば、幸福のために義務を実行するのではなくて、まず義務として幸福の体系である倫理規範を実行するようになると考えられるからである。そして、幸福につながらないから規範に従わないという主観的な反論は封殺されるだろう。そのような客観的法則を樹立しなければと思う。
 また、現代の日本では、強盗や汚職の多発に見られるように、遵法精神も低下しつつある。倫理は個人的道徳だけの問題ではなく、法の規範意識を支えるものでなければならない。法は明らかに国民一般の幸福を目的とする(幸福に解消しえない正義の問題は別として)。倫理規範と法規範が共通の幸福という理念により定礎されれば、倫理規範で培われた規範意識が、法規範の遵守に役立つこととなろう。
 加えて、倫理規範、法規範が一般的に幸福により定礎されれば、規範の遵守が幸福につながる。カントは『実践理性批判』において道徳と幸福の一致は、一方では道徳の命令がそのような一致とは無関係になされ、他方では行為者が自分の意志のままに自然を動かすことはできないから実現不可能だとの理由で、道徳的世界支配者である神の存在を要請する。しかし、規範が幸福の体系であれば、これを実践する行為者には、少なくとも幸福に至る蓋然性が生じるのでは。道徳的原理の根拠となる一神教の神を持たない大多数の日本人にとり信仰なしに幸福への道が開かれることは望ましいことである。
幸福の原理の先頭へのボタン 前のページへのボタン 次のページへのボタン
★トップページへ