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第三章の1 生命倫理


■脳死と臓器移植


「異議あり!生命・環境倫理学」(岡本裕一朗著、ナカニシヤ出版)を検討した結果、標準規範を変更すると共に三章の1の「生命倫理」と三章の2の「環境倫理」が生まれました。三章の1と2の青字の部分はすべて「異議あり!生命・環境倫理学」からの引用です。


☆デイヴィッドの事例

 デイヴィッドはきわめて優秀な移植外科医である。彼の五人の患者がそれぞれ新しい臓器を必要としている。一人は心臓、他はそれぞれ肝臓、胃、脾臓、脊髄である。この五人はみんな同じ血液型だったが、非常にまれな血液型だった。たまたま彼は、同じ血液型の健康な人を見つけた。デイヴィッドはその人を殺し(killing)て、臓器を取り出し、それを彼の患者に移植して患者を救うことができる。そうでなければ、デイヴィッドは健康な人から臓器を取り出すことを控え、患者を死なせる(letting die)ことができる。
(五四頁)


<標準規範による判断>
 この事例は五人の患者にとっては自己の幸福追求(不幸の解消)のために、健康な人の幸福を犠牲にするものである。他者の幸福を尊重する我々の立場では認められない事例だ。
そして、健康な人にとっては自己の幸福追求のために他者の幸福追求(不幸の解消)を拒否するものであり、自己犠牲を強いずに原則として幸福追求を認める我々の立場からは認められる事例だ。
 五人の患者と健康な人との違いを導き出すためには、従来の標準規範では不十分である。そこでTの自己の幸福追求(積極的な幸福の拡大もしくは維持)と区別してUとして不幸の解消について標準規範を追加・修正した。また、生命倫理・環境倫理を検討して他にも追加・修正を行った。
 五人の患者についてはUAbの問題となる。自己の生命のために他人の生命という同等の重大な利益を犠牲にするのだから、許されない。
 健康な人についてはTAbの問題となる。自己の生命を維持するために他者の幸福を犠牲にしても「精神の原理」に反しない。
 デイヴィッドについてはVの問題となる。が、最大多数の最大幸福と言っても標準規範が援用されるので、健康な人から臓器を奪うことは許されない。


☆ケンの事例

 ケンは優秀な医者であるが、彼には一人の重病の患者がいる。その患者の生命を救うには、手元にある薬を全部使わなければならないが、この薬は不足していて供給のメドが立っていない。その時、救急車で五人の患者が運ばれてきたが、彼らはその薬を五分の一ずつ使えば救うことができる。ケンは一人の患者に手元の薬を全部使うことによって、一人の生命を救うことができるが、その場合には他の五人の患者は死んでしまう。そうでなければ、ケンは五人の患者に手元の薬を五分の一ずつ使うことによって、五人の生命を救うことができるが、その場合には最初の一人の患者は死んでしまう。ケンは、このときどうすればいいのか。
(五七頁)


<標準規範による判断>
 一人の重病患者に強い期待が生じていない場合。五人の患者についてと一人の重病患者についてはUAbの問題となる。自己の生命のために他人の生命を犠牲にすることは許されないので、どちらも自己に薬を寄越せと要求することは許されない。ケンについてはVの問題となり、最大多数の最大幸福に従い、五人を助けることになる。デイヴィッドの事例のような標準規範違反の問題は生じない。
 一人の重病患者に強い期待が生じている場合。一人の重病患者については、強い期待が生じているので、薬を使用するのはTAb、すなわち自己の幸福追求の問題となる。この場合、他者の生命のために自己の生命を犠牲にすることを「精神の原理」は命じない。しかし、一人の重病患者が自己犠牲を決断すれば、讃えるべきだ。五人の患者についてはUAbの問題となる。自己の生命のために他人の生命を犠牲にすることは許されないので、自己に薬を寄越せと要求することは許されない。ケンについてはVの問題となり、五人の生命対一人の生命から生じる判断と一人の強い期待から生じる判断が衝突する。ケンが自分の信念に従って、どちらを選択しても、非難はできない。


☆デイブの事例

 洞窟を調査していた探検隊が洞窟を脱出しようとして、軽率にも太った男(デイブと呼ぼう)を先頭にしてしまった。その時、デイブが出口で詰まってしまい、後ろの隊員が出られなくなってしまった。時間に余裕があれば、じっと座ってデイブが痩せるのを待つのがよい方法だろう。ところが、洞窟の中で突然水があふれ出し、一刻も早くここを脱出しなければならない。幸運にも(?)、デイブをぶっ飛ばして脱出できるだけのダイナマイトを持っていた。さて、彼らはダイナマイトを使うべきか、それともおぼれ死ぬべきか。
(五九頁)


<標準規範による判断>
 デイブ以外の隊員にとり、デイブをぶっ飛ばすことは不幸な状態の解消であると考えられる。従って、UAbの問題となり、デイブの承諾無しでは許されない。デイブの承諾が無ければデイブをぶっ飛ばす以外の方法を採らねばならない。
 デイブにとってはダイナマイトの使用は不幸であるが、ダイナマイトを使用しなくてもあふれ出した水により死んでしまうと考えられるので、ダイナマイトの不使用も幸福ではない。従って、デイブにとり幸福への道はないので、標準規範は沈黙する。
 デイブがダイナマイトの使用により他の隊員が救われることを承諾するかどうかは彼自身が決断すべき事である。そして、彼がダイナマイトの使用を決断したら讃えるべきだろう。


☆エドワードの事例

 エドワードは路面電車の運転手だが、今電車のブレーキがきかなくなって、電車が暴走している。その線路の前方には五人の人がいるが、彼らは線路から逃げることができない。その線路には、右に曲がる支線があるので、エドワードは電車を右に曲げることができる。ところが、不幸にも、右の線路には一人の人がいた。エドワードは電車を右に曲げて、一人を殺すことになる。そうでなければ、彼は電車を右に曲げることを控え、五人を殺すことになる。
(六一頁)


<標準規範による判断>
 前方の五人についてと右の一人についてはUAbの問題となる。自己の生命のために他人の生命を犠牲にすることは許されないので、どちらも他方に進めと要求することはできない。
 エドワードについてはVの問題となり、最大多数の最大幸福に従い、五人を助けることになる。デイヴィッドの事例のように標準規範違反の問題は生じない。


☆フランクの事例

 フランクは路面電車の乗客だが、電車の運転手が「ブレーキがきかない!」と叫んでショック死してしまった。線路の前方には五人の人がいるが、線路から逃げ出せない。その線路には、右に曲がる支線があり、フランクはその電車を右に曲げることができる。ところが、不幸にも、右の線路には一人の人がいる。フランクは電車を右に曲げて、一人を殺すことになる。そうでなければ、彼は電車を右に曲げることを控え、五人を死なすことになる。
(六二頁)


<標準規範による判断>
 前方の五人についてと右の一人についてはUAbの問題となる。自己の生命のために他人の生命を犠牲にすることは許されないので、どちらも他方に進めと要求することはできない。
 フランクについてはTAb(五人もしくは一人の幸福と両立しえない)の問題となり、自己の幸福追求が許される。五人と一人を比較すれば、五人が重い。しかし、五人を救うには作為が必要なのに対して、一人を救うには不作為で済む。フランクの幸福追求の内容について標準規範が命令することはない。しかし、「精神の原理」の命令により、自己の信念に従って、行動しなければならない。


☆ジョンとポールの事例

 ジョンは彼の妻を憎んでいた。彼は妻のコーヒーに洗剤を入れ、彼女を殺した。

 ポールは彼の妻を憎んでいて、彼女が死ねばいいと思っていた。妻は誤ってコーヒーの中に洗剤を入れた。ポールはたまたま解毒剤を持っていたが、それを彼女にあげなかった。ポールは妻を死なせた。
(六三頁)


<標準規範による判断>
 ジョンとポール共にUAbの問題となり、自己の不幸の解消のために妻の生命を犠牲にすることは許されない。


☆サバイバル・ロッタリーの事例

 すべての人に一種の抽選番号(ロッタリー・ナンバー)を与えておく。臓器移植すれば助かる瀕死の二人以上の患者がいて、しかも適切な臓器が「自然死」によっては手に入らない場合には、医者はいつでも中央コンピューターに適切な臓器提供者の供給を依頼することができる。するとコンピューターはアトランダムに適切な一人の提供者のナンバーをはじき出し、選び出された者は他の二人以上の生命を救うために殺される。この制度が仮に実行されるならば、「殺される」という言葉の代わりに、適切な遠回しの表現が使われるだろう。たぶん私たちは、他人に「生命を与える」ように要求された市民について噂し始めるだろう。
(六五〜六六頁)


<標準規範による判断>
 標準規範の立場からはデイヴィッドの事例と同じことであり、許されない。このことをもう少し実質的に検討しよう。
 提案者の「ハリスはこの制度がきわめて道徳的だと考えている。『ここの住民の道徳性は問違いなく評価できる』し、『我々の社会より明らかに野蛮であったり、非道徳的であったりするわけではない。』実際、私たちでさえ、他人のために自分を犠牲にする人を、道徳的で勇気ある英雄的な人だと呼ぶだろう。少なくとも、道徳性の基本に利己主義の排除があるとすれば、このロッタリー制が道徳的なことは否定できないはずだ。しかも、ロッタリー制を採用した社会になれば、『より多くの人がより長く、幸福な人生を享受できる』とすれば、功利主義的原理から言っても、この社会を否定する道徳的理由はたやすくは見出せない。」(六六〜六七頁)と言う。
 私の立場から反論する必要がある理由は、「一人の生命より二人以上の生命が価値は高い」「Aから臓器を取り出してYとZに移植しないのは、『健康な人』を『病人』より優先する差別だ。YとZはたまたま偶然に病気になったのであり、Aは病気にならなかったに過ぎない。」という二点だ。
 一人の生命より二人以上の生命が価値は高いと主張することが許されるのは、一人と二人が同じ緊急の環境下において一人の生命と二人の生命が両立し得ないような場合に限定すべきだ。普通の環境下では「一人の生命は地球よりも重い」という原則の下、あくまでも一人の生命と二人の生命の両立が図られねばならない。
 サバイバル・ロッタリーは強制的に非常時を日常化する制度である。健康な人も病人も幸福を追求する権利があるが、私の立場からは病人は健康な人の幸福を奪ってまで、自己の幸福を追求することは許されない。私の幸福主義はすべてを功利主義的計算に委ねるものでは断じてない。また、他人のために自己を犠牲にすることが尊いのは、それが自発的なものである場合だ。サバイバル・ロッタリーからは強制が生じる。例外的に、命令であっても大義に従う自己犠牲が尊いことがある。しかし、非常時を日常化するこの制度に大義は無い。サバイバル・ロッタリーが道徳的とはとても言えない。


◇脳死からの臓器移植に対する私の考え

 厳格に脳死を判定することにより人を殺すことにならないならば、脳死からの臓器移植は認められる。そして、脳死からの臓器移植を社会的に制度として維持することも生命を救いうるが故に認められる。しかし、あくまでも一時的な制度であり他人の臓器を利用しない移植方法の開発が推進されなければならない。
 現在、臓器不足の状態が生じている。岡本氏の言うとおり、「献身の倫理」だけでは大部分の人が動かないからだ。では「相互性の倫理」を導入し脳死からの臓器提供に対して報酬を払うことが許されるか。

 「相互性の倫理」については、「他人のために何か善意を施せば、結局自分の利益になって戻ってくるという考え方」と言われている。これに対して、「献身の倫理」というのは「自分には絶対に見返りがないと分かっていても、他人に善意を施そうという考え方」だ。
(七○〜七一頁)

 私は脳死者が生前、臓器提供を自己決定していた場合は報酬を払うことが許されてよいと考える。なぜなら、脳死者は死んでいて報酬を受け取ることはできず、受け取るのは脳死者が与えたいと思う家族などであり、他人への「献身の倫理」の精神が働くからだ。
 この報酬の提供が許されるのはあくまでも自己決定が為された場合であり、子供の脳死者からの臓器提供のように親などの他者が臓器提供を決定する場合は許されない。このように報酬を導入しても臓器提供が増えるには自己決定が為される必要がある。このためにはノンドナーカード制度によりノンドナーカードを持っていなければ臓器提供の承諾を擬制するよりも、自己決定を強いる制度の方が望ましいと考える。
 すなわち、臓器移植に関する自己決定を行わない場合、社会的ペナルティーを課すのだ。もちろん、その前提として学校などで啓蒙が行われると共に、ネットなどを通じて簡単な手続きにより自己決定ができる制度が整えられなければならない。その自己決定の結果はデータベース化され、移植を行う病院が簡単に参照できるようにする。
 そして、ペナルティーとしては自己決定の遅延に対する罰金を税金として徴収する制度、自己決定の遅延に対して運転免許の違反点数が累積していく制度、新経済システムによる価値資本が減額される制度などが考えられる。
 以上に加えて、社会的な制度として自己決定を導入する場合は、多様な自己決定の選択肢を用意すべきだろう。提供する臓器を選択できるのはもちろん、次のような選択肢が用意されてよいだろう。血縁者に対してのみ臓器移植を認める選択肢。臓器移植の提供を自己決定している人にのみ臓器提供する選択肢。臓器移植を承諾している人にのみ臓器提供する選択肢。臓器移植によって得られる報酬を自分以外の誰に与えるかを決める選択肢など。




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