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価値資本の正当性

 私は、新しい経済政策の必要性を感じるとともに、素朴な疑問を元にして、思考を深化・発展させて新しい経済政策を案出した。社会全体の有効需要は、消費需要、投資需要、政府が作り出す需要、輸出入からくる需要からなる。政府が作り出す需要は行き詰まっているし、輸出入からくる需要には限界がある。投資需要は低利によって刺激されても消費需要が無ければ増えない。そこで、消費需要を直接作り出す政策を考えた。実行しても赤字国債などの将来への不安は残らず、不況対策として消費需要を直接喚起し、効果的かつ画期的なものとなるような構想を得ることができた。
 私の案出した経済政策とは以下のようなものである。
 電子マネーと情報ハイウェーとコンピューターデータバンクを結び付けて、新しいコンピューター情報ネットワークを建設し、それを利用して、価値資本を国民に贈与し、国民は価値資本を使って必需物資だけを購入でき、必需物資を売った者は価値資本が転化した、何でも購買可能な通常の現金が手に入るようにする経済システムを構築するのである。
 価値資本について説明する。価値資本は経済活動によって得られたものではない資金(指定された必需物資の消費にしか使用できず、他人への譲渡や蓄積することができないが、一度消費に使用されれば通常の現金に転化する特殊な性質をもった現金)であり、価値資本を贈与することは、政府が贈与する目的で強制通用力を有する紙幣を印刷し、その紙幣を不特定多数の国民一人一人に無償で贈与することに相当する。
 価値資本の贈与に対してはその正当性に対して疑問が考えられるので、検討してみる。
 まず、価値資本は不当に国富を増大させるという純朴な疑問に対して。価値資本は現金と同じく、日銀に対する債権・債務が増えるだけで、これは国富に含まれない。価値資本の贈与の結果、生産活動が活発化して国富が増えることも予想されるが、それは生産を行った労働の力によるものであり、何ら不当なものではない。
 しかし、総資産が増大することは確かである。だが、総資産は投機によっても増大する。バブルによる株価、地価の値上がりによって増加することが認められているのだから、現金にあたる価値資本によって増大させても何ら不当ではない。通貨量が基本的にその国の自由にまかされていることからも不当ではない。
 そして、価値資本の贈与を行えば国民所得が増大する。しかし、国民所得は「生産物の総額」とも定義されるのだから、国民所得の増大に比例して生産が増大すれば、不都合は無いはずである。
 正当性に対する最大の疑問は価値資本を受け取る個人に対するものである。経済活動の結果ではなく、不労所得であり、不当ではないかとの疑問である。資本主義経済下では、市場を通じた経済活動によって購買力を獲得するのが原則である。
 それを支える根拠としては、まず、経済活動に励むことによって社会の生産を支え、進歩がもたらされるということがある。これに対しては新経済システムを通じた価値資本の贈与は労働の動機を損なうものではないと反論できる。なぜなら、価値資本では必需物資が買えるだけであり、快適な生活を望むなら、それ以外の財貨・サービス購買のための金を手に入れるために労働せざるを得ないからである。また、現状では価値資本を生活に必要な必需物資すべての購買が可能なだけ贈与するものではない。すなわち、価値資本の贈与は家計を助けるものなのである。従って、国民の生活は楽になるが、それだけでは暮らして行けないことも明らかであり、勤労の動機が失われることはないのである。
 次に、経済活動の成果であるからこそ、その結果としての購買力の獲得が承認され、社会秩序が維持されるという論拠がある。これに対しては、国民全員に対して新経済システムを通じて一人一人に整然と価値資本を贈与するのであり、社会秩序に対する悪影響は無いと言える。「調整インフレを起こすために空からヘリコプターで金をばらまく」ことは比較の対象にならない。極めて秩序ある贈与なのである。
 経済活動を通じて購買力を得るのが社会の確信であるとの論拠がある。これに対しては生活保護や補助金といった例外は現在でも存在するし、国民全員が生活を下支えされることは国民一人一人の生存を保障する生存権の理念(憲法25条)に合致すると言える。
 これに対し、自活するのが原則であり生活保護等はあくまでも例外であり、例外を原則にすることは許されないとの立場も考えられる。しかし、現在でも個人の自活は様々な公共的サービスの上に成り立っており、しかもそれは必ずしもその個人の公的負担に対応するものではない。価値資本はこの公共的サービスの拡張に含みうると反論できるだろう。
 また、国民一人一人に等額の価値資本を贈与するので、貧富の差の縮小にも役立つ。国民の生存を保障する力となるので、その上に立って文化活動も盛んになるだろう。
 アダム・スミスの言うとおり、市場はある一致した評価に基づいた善行の金銭的な交換を行い、資源を配分・経済を調整する効率的な機構である。しかし、市場だけで需要不足を解決できないことは歴史的経験からみて明らかであり、市場の機能を損なわない限り、異質な制度を持ち込んでも構わないのではないか。翻ってみると、財政政策を行う政府という存在も市場とは異質なものである。ここで、私の新システムを導入しても、市場での金儲けの動機や市場の機能は損なわれない。そもそも経済は人間の必要を満たすために存在するのである。経済のために人間が存在するのではない。経済を破壊せずに人間の必要を満たせる経済システムを排斥する理由は無い。
 では、具体的にどの程度の価値資本の贈与を行うのか。現在では、毎年の価値資本の贈与の総額は日本のGDP500兆円に対し約5パーセントほどの成長率に相当する25兆円程度が目安となろう。これだけの金額を栄養剤として、従来の経済機構の外部から日本経済に毎年、注入するのである。
 私は今でも投機の横行するあの大バブルを潰したことは正当だと思っている。確かに、バブルには人々の金持ち願望を充足して有効需要を刺激し、経済成長に欠かせないという面があった。だが、浮利を追い、実利を忘れ、投機が横行して弱者を食い物にする実態がある。金儲けは社会に利益を与える限度で認められるべきである。バブルによる経済成長のかわりに、価値資本の贈与を通じて需要を拡大し経済成長を図るというのが、私の経済政策である。
 私は市場の効率性を認めるが万能視はしない。市場の不完全なところを認めて現行の市場システムを補完するために、経済の安定と成長のために、新経済システムを案出した。これにより、日本型システムの長所を残したまま、かつ、財政再建路線を維持したまま、景気回復を実現することが可能になると考えている。付随的に日本経済をより強化する改革を行うことも可能となる。

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