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『自由とは何か』(佐伯啓思著、講談社現代新書)を読んで、「自由の諸問題について」に第5章を追加しました。
「自由の諸問題について」の第2章から第5章を含む全体は、電子本「新社会解明」に掲載されています。





電子本「新社会解明」
          ─自由・ネット経済・世界連邦─        

著作者・著作権者 久保田英文(救世国民同盟代表)
販売元 でじたる書房
価格¥500(税込)

2007年5月18日に電子書籍店「でじたる書房
から発売開始になりました。
(発売のジャンルは「教養 / 社会・コミュニティー・環境」です。)


この電子本に収録した「自由の諸問題について」などは、
新たに整理と追加と推敲を施した最新版であり、
「まえがき」と「あとがき」を書き下ろして、読みやすいようにまとめました。
また、カラー写真を挿入してビジュアルを良くしました。


てじたる書房の「新社会解明」の頁はこちらです。



内容紹介

人を殺すのは自由?
援助交際は善?
リベラリズムは正義?
市場原理主義は最適?
世界連邦は空想?
この本がお答えします。
自由の本質。
自由の限界。
実現すべき経済。
目指すべき国際秩序。
水瓶座時代の新社会の姿が明らかになります。

2007年5月発売電子本「新社会解明」抜粋


★まえがき
目次
★第1章 自由の諸問題について
…………
◆第5節 自由とは何か
◇問題状況
『自由とは何か』(佐伯啓思著、講談社現代新書)を読んで。
頁数は『自由とは何か』のもの。

◇問題状況
 第4節までは、大世紀末を迎えるまでの社会的に調和のとれた日本社会を前提に、自由を「自己の価値への接近可能性」と定義した。しかし、二一世紀を迎え、「自由とは何か」を読んで自由の重要な一面を軽視していたことに気づかされた。その重要な一面とは「それぞれの国の社会や文化の相違を相互に尊重しあうという多元的な自由」(四八〜九頁)である。これは、私の「自己の価値への接近可能性」という自由の定義に即して考えれば、「自己の価値の選択の自由」と言うべきものである。確かに、人類に普遍的なものとして、束縛の無いことが自由の中核である。しかし、自由を「自己の価値への接近可能性」と定義するとき、自己の価値をどのようにして選択するのかという問題が見過ごされてしまう。遅まきながら、自由に「自己の価値への接近可能性」という自由と「自己の価値の選択の自由」という二面があることを認めたい。
 そして、大世紀末以後、自由の二面ともに過剰な状況が現出した。

 個人は、社会や国家に先立って自立している。彼は自分で自分のやりたいことを知り、理性的に判断することができる。また自分の身体や財産を自分で守り意のままに使うことができる。これが自立した近代の個人というものだ。そして自立した個人を先験的に措定してしまうと、法や道徳という社会的な拘束は個人の自由に対する束縛としか見えなくなる。こうして、特別な説明を要求されるのは、個人の行動を縛る法や道徳の側だとみなされることになる。自由の方は無条件に認められており、説明責任を負うのは法や道徳の側なのである。
(六七頁)

こうした考えが行き過ぎたのである。一方で、自由な人間が「人を殺してはいけない理由」が問われたり、消極的自由を貫徹して他国を裁こうとしたりする動きがある。他方で、少女の自由な選択である援助交際を止める理由が見つからなくなってしまったのである。前者は束縛されない自由の過剰であり、後者は価値選択の自由の過剰である。そして、犯罪的行為の頻発は両者の過剰である。

◇人を殺す自由
 人間はそもそも人を殺す自由を持っているのか。西欧近代政治思想史の典型的理解を見てみる。
 まず、ホッブズ(Thomas Hobbes 1588-1679 イギリスの政治思想家)。自然状態において人は自らのやりたいことをする自由を持っていた。人を殺す自由も持っていた。しかし、この自然状態は人間にとり破滅的となる。そこで、人間は契約により「国家」を造り、他者を殺す自由などを放棄した。
次に、ロック(John Rocke 1632-1704 イギリスの哲学者)。自然状態における人間の自由を理性の法である自然法が制約していた。理性は人を殺すことを認めない。自然状態は不都合があるので、人間は契約により「国家」を造った。
 ホッブズの立場をとると人間は本来、殺す自由を持っていたことになり、殺す自由を否定する根拠を見出すことが困難になる。しかし、ロックの立場をとって人を殺す自由を否定することも難しくなってきている。なぜなら、自然法が自由を制約すると言っても、自然法の根拠は、神もしくは理性である。神の権威は失われつつあるし、理性的に考えて人を殺す自由を否定する根拠を求めているのが現代だからである。だからと言って、最大多数の最大幸福を原理とする功利主義をとると、少数者の自由が脅かされてしまう。
 私の理論体系から人を殺す自由を否定する根拠を見出したい。人間の「精神」は価値的に見て平等である。精神が生命の本質であるからには、人間は本質的には平等である。人間の生命に価値的な差はない。しかるに、人が人を殺す自由を持つとしよう。その場合、殺す人は殺される人よりも、価値的に上にあることになる。他人の生命を否定できるのだから、否定する人は、否定される人よりも価値的に上だということになる。しかし、私の理論体系では人間は平等である。殺す人が殺される人よりも上であることは認められない。従って、殺す自由も否定されることになる。また、ある人の幸福が別の人の幸福よりも上だとは言えない。人間は自己の幸福を追求する過程である程度、他人の幸福を侵害することはやむを得ないが、他人の重大な幸福を無視する自由は本来、有していないと解するべきだろう。このように考えることは「人間は自由、かつ平等に生まれる」という自由主義の観念にも合致する。
 このように考えると人間一人一人は本来、殺す自由を持っていないので、殺すことができる「国家」というものを創造したことになる。

◇リベラリズム
 援助交際を否定できないものとするのが、リベラリズムである。リベラリズムは、「それぞれの国の社会や文化の相違を相互に尊重しあうという多元的な自由」(四八〜四九頁)を重視する。「どういう生き方をしてきたか、またどういう人生を送るかということよりも、そのつどの状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することのほうが優先されるべきだとみるのだ。あるいは『人の生き方』は評価し得ないがゆえにこそ、それを自由に選択し得る条件の方を重視する。」(一五〇頁)という立場である。
 リベラリズムの主張の根拠に価値の相対主義がある。「価値についての判断は、人々が完全に合意できる客観的で普遍的なものは存在しない」(一五三頁)ので、「ある価値が正しいか間違っているかの客観的基準は存在しない。」(一五三頁)。従って、価値である「『善(good)』は客観的に定義したり表明したりできない。」(一五四頁)。「『善』について善し悪しを言うことはできない。」(一五四頁)ので、多様な善を保障する正義は、善よりも優位に立つ。これらについて検討しよう。
 まず、事実命題を人間が評価・解釈・判断することで価値命題が生じる。評価・解釈・判断の基準が人間により異なれば、人間毎に違う結果が得られるであろう。しかし、評価・解釈・判断の基準が同じであるならば、客観的合理的推論を行うと同じ結果が出るだろう。では、人間の善について評価・解釈・判断の基準を同じにすることができるか。ソ連邦に見られるように可能であろう。しかし、強制することはできない。問題は、誰もが理性により合意できる客観的合理的な基準を持てるかということになる。
…………
★第2章 新経済システムによる資本主義の補完
★第3章 世界連邦による覇権の共同管理
★第4章 自由原理主義と世界について
★あとがき

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