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第五章 自由とは何か

2005年3月14日
2007年5月修正

『自由とは何か』(佐伯啓思著、講談社現代新書)を読んで、論文「自由の諸問題について」に第5章「自由とは何か」を追加しました。6節あるうちの第3節のみを掲載します。全文は、でじたる書房で販売中の電子本「新社会解明」に掲載されます。頁数はすべて『自由とは何か』のものです。

◇リベラリズム
 援助交際を否定できないものとするのが、リベラリズムである。リベラリズムは、「それぞれの国の社会や文化の相違を相互に尊重しあうという多元的な自由」(四八〜四九頁)を重視する。「どういう生き方をしてきたか、またどういう人生を送るかということよりも、そのつどの状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することのほうが優先されるべきだとみるのだ。あるいは『人の生き方』は評価し得ないがゆえにこそ、それを自由に選択し得る条件の方を重視する。」(一五〇頁)という立場である。
 リベラリズムの主張の根拠に価値の相対主義がある。「価値についての判断は、人々が完全に合意できる客観的で普遍的なものは存在しない」(一五三頁)ので、「ある価値が正しいか間違っているかの客観的基準は存在しない。」(一五三頁)。従って、価値である「『善(good)』は客観的に定義したり表明したりできない。」
(一五四頁)。「『善』について善し悪しを言うことはできない。」(一五四頁)ので、多様な善を保障する正義は、善よりも優位に立つ。これらについて検討しよう。 まず、事実命題を人間が評価・解釈・判断することで価値命題が生じる。評価・解釈・判断の基準が人間により異なれば、人間毎に違う結果が得られるであろう。しかし、評価・解釈・判断の基準が同じであるならば、客観的合理的推論を行うと同じ結果が出るだろう。では、人間の善について評価・解釈・判断の基準を同じにすることができるか。ソ連邦に見られるように可能であろう。しかし、強制することはできない。問題は、誰もが理性により合意できる客観的合理的な基準を持てるかということになる。
 私は『新しい幸福の原理』で検討してきた結果、「自他の幸福の尊重」が善の本体であるという結論を得ている。「自他の幸福の尊重」を基準としたいと考えている。私が『新しい幸福の原理』で述べてきたことは論理の整合性や事実との符合により合理的に判断できる。また、そこで述べてきたことは人々が直ちに完全に合意できるものとは思わないが、一応、納得できるものだと考えている。そして、『新しい幸福の原理』に従えば、行為の善悪を一応、客観的に判断できる。また、そこで述べてきたことが人々の共有財産となり、人々の力で《幸福の原理》を磨き上げれば、完全な合意に近いものを得ることができると考えている。普遍的な価値として「自他の幸福の尊重」を機能させることができると考えている。
 この立場からすると、『正義論』で述べたように正義とは「善に比例して利益を与え、悪に比例して不利益を与えること」だから、正義は善に従属することになる。
「自由な社会には、どうしても『慣習』や『常識』がなければならないのである。さもなくば、社会は全体主義かアナーキズムかのいずれかに陥ってしまうのだ。」(一六五頁)この慣習や常識の力が弱くなっているのが、現在である。新しい《幸福の原理》をこの慣習や常識を支える力として使用したい。





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