最後の奴国であるが、北部九州の奴国と同名であるというのはおかしいので、毛奴国とあったものから、「毛」が誤脱したのだと考える。
「建武中元二年、倭の奴国、奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす。」18)
この『後漢書』の記事にある奴国は、三宅米吉の指摘が正しく、北部九州の奴国であり、東国21カ国中の「毛」が誤脱した奴国を北部九州の奴国と勘違いしたものである。また、21カ国の中には加賀国が無いが、令制国の中で最後に建てられた経緯から分かるように、独立した国ではなく越国の一部に過ぎなかったと考えられる。このような比定からすると、邪馬台国時代に倭国の勢力は西関東にまで及んでいたことになる。
女王の境界の「南」、実際は〈東〉にあって女王に属しない狗奴国とは、東関東及び東北地方の勢力だと考えられる。卑弥呼の下で安定した倭国の勢力が東関東以遠にまで伸張しようとしたため、争いが生じた。東関東及び東北地方の勢力とは、この地方の倭人の国、もしくは蝦夷の部族連合、もしくは倭人と蝦夷の連合が考えられる。狗奴国の官「狗古智卑狗」は菊池彦ではなく、蝦夷の言語が参照されるべきものである。また、男王「卑弥弓呼」とは、男の日の巫女、すなわち男性シャーマンのことではないだろうか。
『魏志倭人伝』は述べる。
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり。また侏儒国あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸国・黒歯国あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。」19)
実際は、北部九州の〈東〉の方向に日本列島は伸びている。〈東〉方に関係する知識を魏の使節は耳に入れたり、瀬戸内航路の〈南北〉の両岸、魏の使節にとっては「東西」の両岸に陸地があったりするので、〈東〉方にも倭種の国があるのは確からしいと思う様になった。しかし、日本列島が〈南〉に伸びているという誤った認識を訂正せずに、日本列島の「東」にも倭人の国があるという情報を付加することで済ませたのではないか。そして、同様に〈南〉への偏向に従わずに、倭種の国の「南」に株儒国、株儒国の「東南」に裸国・黒歯国とするのではないか。つまり、この部分では『魏志倭人伝』の記述は実際の方角に従っていると考えられる。株儒国、裸国・黒歯国は実際に日本の南方にある国々を指していると解される。また、正しい方角が分かっていたとしても認識を変えず、北部九州の〈東〉の方向に日本列島は伸びている真実の情報をこのような形で記載することで、取り繕ったとも考えられる。
以上、『魏志倭人伝』全体の方角記事を「邪馬台国=畿内説」の立場から解釈した。
次に、距離について考察する。帯方郡より女王国に至るまで一万二千余里なのに、その中、帯方郡から狗邪韓国までが七千余里、狗邪韓国より末廬国まで水路合わせて三千余里、末廬国より不弥国まで陸路合わせて七百余里なので、水陸合計して既に一万七百余里を算し、余すところは、一千三百余里に過ぎない。この一千三百余里では大和に達するに足りないという白鳥庫吉の指摘に対しては、次のように答える。確かに、『魏志倭人伝』は「郡より女王国に至る万二千余里。」20)と記載する。この「至る万」の部分は、「至る二万」の「二」が誤脱したものと考える。他の史書で「一万二千余里」とあるのは、この誤脱した状態をそのまま正しいとして受け継いだからである。
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