◆日本の権威と権力1
『天皇はなぜ生き残ったか』 (本郷 和人著、新潮新書)を読んで。頁数は『天皇はなぜ生き残ったか』のもの。
「よくよく考えてみたい。権力と権威とはそのように簡単に分離して考察できるものなのか。そもそも天皇の権力とは具体的にはどういうもので、権威とはどういう社会的な機能を指し示すのか。」(四頁)
私もこのような方向で近世までの日本の権威と権力について考察してみたい。歴史上の実際の権力が有する権威と権力は、分かち難く結びついている。しかし、歴史上の権威と権力の拠って立つ要素を抽出して、要素ごとに分析することは可能である。
まず、権威と権力の概念を明らかにする。私の立場では、権威とは、「心を従わせる力」である。権力とは「行動を従わせる力」である。
権威の源として、武力、合法性・正統制、カリスマ(個人的能力・魅力)、宗教、哲学・思想・理論、血統・伝統、が挙げられる。権威の源として武力を挙げたのは、日本では武力が畏怖の対象であるばかりか、武士の存在に見られるように尊敬の対象となっていたからである。
権力の源は、権威である。権力行使の基盤(条件)は、軍隊・警察(武力)、支配機構(官僚機構)、民衆の支持、合法性・正統性、が挙げられる。
民主主義が浸透する前の日本においても、基本的に権力者は常識的であり、無茶なことをしなかったし、民衆も権威に弱く、権力には「長いものには巻かれろ」式の対応をする心性を有し、比較的容易に支持を調達できたので、民衆の支持については深く触れない。加えて、以上の要素ごとにその力の強さを考えることができるのは言うまでもない。
私は、天皇制の核心は、権威の源としての独自のイデオロギーだと考える。そのイデオロギーとは、「天孫である天皇家が日本を支配し、官位・官職を授与する」というものである。このイデオロギーの成立は、国号「日本」の成立と関連し、同時期のものであると考えられる。近江朝を倒し、壬申の乱に勝利した天武天皇による権威と権力の高まりを画期的な起源とし、「古事記」「日本書紀」により定着が図られた。その後、天皇家の権威・権力により、刷り込みが行われ、民の側から自発的学習が行われるまでになったのである。
このイデオロギーは極めて強力である。「天孫である天皇家」は、神道という宗教に支えられている。日本古来の神道に記紀が理論的根拠を与えることで、神道は天孫を支えるものとなったのである。記紀は天孫であるということの哲学的思想的裏付けともなっている。天皇家は、祭祀を行い続けることで、この要素を支え続けた。また、「天孫である天皇家」は、天神の子孫であるという血統を示すとともに、既に天神の始まりからの長い伝統があることを示している。「天皇家が日本を支配し」の部分では、天皇の支配機構である朝廷の支配を正当化し、天皇権力の行使を担保した。「官位・官職を授与する」の部分では、合法性の根拠としての地位を確立した。古代、この天皇制イデオロギーは、伝統については今に比べて累積の度合いが低いが、成立したばかりであり新鮮で強力だった。
「『古代から中世へ』の推移を考えてみよう。一方で人口のわずかずつの増加を念頭に置き、一方で中世の根強い当事者主義に思いを致す。そうすると、中世より時を遡る古代にすでに、きめ細やかな行政なり統治が実現していたとは、わたしにはやはり認めがたい。人口と権力は相関する。人口が徐々に増えていくなら、権力もまた次第に成長していくのだろう。中世より若干人口が少ない古代には、中世より少し脆弱な権力しか存在せず、当事者主義はその社会にも貫かれていた。」(二五〜二六頁)
古代に関するこの意見に概ね賛成する。しかし、朝廷は、強力な天皇制イデオロギーに支えられて、律令的支配を貫徹しようと努力し、その過程で専制的権力を民衆に対してふるっていたと考えられる。本郷氏の言う「当為の王」としての振舞である。天皇制イデオロギーの成立後は、天皇が臣下に殺されるような事件は起こらなくなった。平安時代に入る直前に、天皇家の系統は、天武系から天智系へ移動するが、強力な天皇制イデオロギーに支えられて、朝廷は揺るがなかった。
しかし、律令的支配の押し付けには無理があり、第2章「位階と官職の淘汰と形骸化」通りの事態が進んだ。時と共に天皇制イデオロギーの新鮮さも薄れていった。また、朝廷が後押した仏教(寺家)の隆盛は、神道的イデオロギーを弱らせたと考えられる。これらの結果、天皇の権威はいささか弱まり、朝廷内の争いを勝ち抜いた藤原氏(公家)が外戚として権力を握った。律令的支配の弱化は、地方の治安の悪化をもたらし、武力で財産を守る武士(武家)の興隆を招来した。かくして、黒田俊雄氏が提起した「権門体制」の要素である天皇家、公家、寺家、武家が揃った。
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