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 歴史的に見ても倫理は人間の幸福に奉仕するものとして生み出されたのであって、幸福を原理として倫理規範を体系づけることが可能であることを示して、自他の幸福を原理とした標準規範の準備をするとともに、基本的倫理についての理解を深めたい。そのために、神の命令である十戒を《幸福の原理》で説明してみる。
 初めから四つは道徳ではなく、キリスト教という宗教そのものに関するものなので一時脇に置く。
 あなたの父と母を敬え。
 聖書では、主が賜る地で長く命を保ち、幸いを得ることのできるためであると言っている。理由というよりは、これを守れば幸福になれるという結果を言っているのであろう。幸福に関連づけている点は注目に値する。幸福という概念を使って、道徳を原理的に支える可能性を示すものである。父母を敬わなければ、父母の子への愛情は失われるであろうし、父母から子への文化の継承は途切れるであろうし、父母を敬わない子の子供は、その父母を敬わないであろう。父母が敬われなければ、序列が失われて社会もうまく機能しないし、個人的幸福も失われる。
 あなたは殺してはならない。
 一般的には生命の尊重、特に人間の生命の尊重を言っている。では、なぜ、命は大事にされなければならないのか。「人の命は一回限りで、再生不能な存在であり、また命を大事にすることは尊厳ある人権を守ることでもあるからです」という考えもある。前半は命が大事であることを繰り返して強調しているだけである。後半は人権という元来法律用語であるもので説明している。人権は大事なので、命は大事にしなければならないと言っているに過ぎない。人権が大事なことは法律学で説明されるが、制度としての人権を擁護するものに過ぎない。人権という言葉を持ち出して判断停止するのではなく、道徳的原理的基礎が明らかにされねばならない。
 《幸福の原理》から説明すると、生命が大事なのは、命を永らえることが幸福だからである。人は生きたいと思い、その想いは尊重されなければならないからである。他人の生きたいという思いを無視して、他人が不幸になる道を選ぶのは人の道に反するからである。では、なぜ、人の幸福を願わねばならないのか。他者が代置不可能な存在だからである。自分の幸福は他人が自分の幸福を尊重しなければ存在しえないからである。加えて、人間が幸福であるためには、生存の基盤として社会が必要であり、社会を維持するためには、他人の幸福を尊重することが必要だからである。そして、人格が究極の目的であり手段ではないことが、自他の幸福の尊重を命じ、倫理を根底で支えるのである。
 あなたは姦淫してはならない。
 本意は家族の維持による人間の幸福であろう。温かい家庭が人間の幸福にとり重要であることは明らかである。そして、家族の基礎は夫婦関係にある。夫婦関係を強固なものにするには、夫婦間の性的結合を特別なものにする必要がある。愛のない欲望の満足よりも、夫婦関係はないが愛のある結び付きを、それよりも夫婦の性的結合を価値あるものとする必要がある。夫婦関係にない性的結合を制限することにより、結婚は純潔という贈り物を配偶者に与え、愛情を深くする。肉体は汚れるものであり、兄さん、姉さんのお古の服と同じく、価値が減じるのである。愛は形のないものである。形がないからこそ、愛を示すには、何かに託して示すほかはない。純潔に託された愛こそ、最高の贈り物である。
 性的結合そのものに快楽という幸福の一種がある。だからと言って、快楽のために性的自由を家族の維持に優先すべきとは思えない。家族は社会にとり不可欠な要素である。核家族は近代に典型的だが、愛ある家庭という理想を体現するものであり、徹底的に自由な人間関係に解消されるべきものではない。徹底的な自由を耐えるには人間は弱すぎるし、徹底的に自由で幸福な社会は机上のものに過ぎない。徹底的に自由な競争は弱肉強食であり、堕落と犯罪を生み、人間の幸福は消し飛ぶ。
 あなたは盗んではならない。
 人間の経済生活の基礎であるモノが盗まれては、生存が成り立たなくなる。正当な手段で物資は手に入れなければならない。原則として働いて報酬を手に入れなければならないということだろう。また、正当な交換が成り立たなければ、高度な経済社会を築くことはできない。人間の生存という幸福を確保し、より大きな経済力を手に入れて、物質的欲求を満たして幸福になるために、盗んではならないのである。だから、投資は許されるが、投機は望ましくない。競馬、パチンコなどは、社会に悪影響を及ぼさない制限的なものである限り、人間の楽しみとして許容される。
 あなたは隣人について偽証してはならない。
 隣人についてとなっているのは、歴史の発展段階を考慮すると、一般的に偽証を禁じるのはうまくないからだろう。嘘をついてはならないということと人を陥れてはならないという二つの含意が考えられるが、後者は第十戒の所で述べる。なぜ、嘘をついてはならないのか。人間関係は信頼関係からなっており、他人が信頼できなければ大社会は構成できないし、人間不信という不幸をもたらすからである。これから、約束は守らなければならないということも導かれる。カントの言うように、偽りの約束をする者は他者の人格を手段としている。
 あなたは隣人の家をむさぼってはならない。
 他人を陥れてはならない。つまり、第六戒で述べたように他人の幸福は尊重しなければならないということである。そのためには、他人をうらやむ心は押さえなければならない。 初めから四つについても、他の六つと同様、説明できないものではない。神のように自分の上にあるものを持たないと不幸になると言えるからである。つまり、自分が最高独立の存在だと考えて生きてゆけば、他からよい導きを得ることを怠るであろうし、心の安らぎは得られないであろうし、利己主義に陥り、他との衝突も起こりやすくなるのである。
 このように十戒も幸福を原理として説明可能である。神の権威なしに、一般的に反論不可能なほどに客観的に十戒を基礎づけることが完全にできたとは思わないが、幸福の体系としての倫理規範の可能性は示せたと思う。幸福の体系は、幸福というきわめて説得的な理念の指導の下、規範意識を回復させる基礎となると考える。
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