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「母性愛神話の罠」による母性愛への攻撃に反論する。
(大日向雅美著、日本評論社刊)

2000年6月29日


「家庭が崩壊した母親がだめになったとは、この種の議論の際に繰り返される常套句であるが、そうした嘆きをつぶやく人々の脳裏には、家庭も母親も、時代や社会に応じて変わりうることは認めがたいらしく、あたかも家族も母親も社会の変化とは切り離された聖域であるかのような議論が繰り返されている。」と言う。確かに、家庭も母親も変わることができる。そして、著者が男女平等イデオロギーで現状をさらに変えようとするように、私も男らしさ・女らしさ、父性・母性、家庭・主婦を維持する立場から、男女平等イデオロギーの蔓延する現状を変えたいと思う。著者が非難する人々は、守るべき価値を主張しているのであり、著者も自分の主張に合う現実を、それに対する攻撃から守ろうとしているのだ。

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 私は、乳幼児期は重要であり、だからこそ主として母親の手で育てられるべきであるという三歳児理論を主張する。
 乳幼児期が重要な点については著者も同意しているが、この点についても敷延する。
乳幼児期は世界に対する信頼を確立する時期である。この時期に邪険に扱われ続けたりすると、回りの世界を自己に敵対するものとして認識し、それが染み付き、そのまま成長すると反社会的行動に走ることが多い。回りを敵対的と認識するので不安が生じ、心の幸福が損なわれて回りと有効的安定的な関係を結べず、回りとの不安定な関係がまた不幸を呼ぶということになるのだ。
 また、周囲の好意は愛情を乳幼児に注ぐという形をとる。この愛情がふんだんに注がれないと、成長しても愛情飢餓感に苦しむことになる。
 乳幼児は力が弱い。周囲が絶えず見守っていないと重大な事故になることが多い。だから母親のまるごと受け止めたいという愛情で見守る必要がある。
 上のことをマズローの要求の段階で考えてみる。マズローは、最初に食物、水、運動と言った生命を維持するための基本的な生理的要求があり、第二段階には秩序と安全への要求があり、第三段階には、社会的要求、何かに帰属したいという要求、第四段階・アドラー的段階には自尊心、地位、承認、成功に対する要求があり、これらが満たされて初めて第五段階として自己実現が可能とする。
 無防備な体で生まれてくる乳児は、まず、強く第一段階と第二段階、すなわち生理的要求と安全への要求を行う。これらが満たされないときには乳児は周囲の世界を敵対的として認識し将来の反社会性の元となるとともに欠乏が激しいときには心に傷を負う。絶えず注意を払って要求を満たす母性が必要である。
 これらが満たされ乳児から幼児へ成長すると、第三段階の要求として周囲からの愛情と周囲に対する愛情を求めるようになる。この愛着の対象としてまるごと受け止める母性を持つ母親が一番の適格である。
 そして幼児期から少年期へ向かうとき、第四段階の要求をするようになる。このとき学校とともに父性が大きな働きをする。子どもに筋を示し課題を与え、筋に忠実であったことや課題を達成したことで誉めて自尊心などを与えるのである。
 乳幼児期は第三段階までの要求を基礎的に満たす時期である。乳幼児期にこの要求が十分満たされないと、満たされていないという要求の欠如感に苦しむことになるのである。
b このような重要な時期は母親が主として育児を行うべきであるのは以下の理由による。
 母親に育児の適性があること。
 生んだという事実から乳児に愛着をもちやすい。自分の手になじんだ道具に愛着を感じるように自分が生んだという関係そのものから乳児に対して愛着が生じやすい。おなかを痛めた子だから可愛いという事である。
女性には子宮が存在し、子宮とその中の愛児を守ろうと言う性質が染み付いている。
女性は乳が出て乳児に与えたいと思うことが多い。
 このようなことから母親は乳幼児を守り、愛情を与えることに適性を有する。乳幼児期に重要な「まるごと受け止めたいという愛情」を母性により供給できるのである。
 なぜ、父親ではなく、母親が母性を担うべきか。
「まるごと受け止めたいという愛情」を担う母性とは違う父性を社会が必要とするからである。
 父性は優しさよりも厳しさを特徴とし、論理性、合理性を感性により枉げる事なく貫徹するという特徴を持つ。著者は「女性は情緒的で、男性は論理的だなどという通説は、母を語らせれば見事にひっくりかえされる」という。通説は著者の言うような意味ではない。男性も当然情緒を持っていてそれを強く表すこともあるが、知性を情緒によって曇らせることが少ないということである。逆に女性は知性を情緒に従わせることができる、すなわち優しさや感性が優先するということである。
 厳しい父性が存在したからこそ、究理が徹底的に追求されて、文明が発達したのだ。また、母性の特徴とする優しさだけでは、職務を果たせない仕事が多いことも事実だ。私は父性と母性などが失われれば、文明は堕落すると考えている。
 このような父性の家庭における不在が、母親が自分の息子に執着する弊害に力を与えているのである。
 また、母親に愛着することで、子どもが追い詰められた時にもまるごと受け止める愛情を持つ母親には味方になってもらえるという安心が得られる。
 なぜ、保育園ではなく、母親が主として担うべきなのか。
乳幼児が愛着すべきは保母よりも母親である。
保育園は経済合理性を考慮せざるを得ず、母親のかける愛情には及ばないからである。
c 以上のようなことから、母親が主として育児を行わないと悪影響が生じる。
著者はこれを否定するが、反論する。
 柴田幸一氏の研究を例に引いて、「保育園保育児の場合には親子関係が緊密であり、互いに愛情を基本とした信頼関係を築いていこうとする気持ちがあれば、母子分離によって親子関係の質にはさほど影響を受けないことを指摘している。」と指摘する。
 しかし、私が前に指摘したのは親子の関係に止まらない、子供の心の幸福の問題であり、その問題は青年や成人になって顕著になる。また、「気持ちがあれば」の話でもあり、母親が主として育児を担うことから逃げれば、その気持ちは失われるのだ。それに、早い時期から「まるごと受け止める愛情」が欠けていれば、親子の分離の実験の前提となる安定した親子関係さえも無くなるのだ。
 そして、「保育園に子どもを預けることによって、母親が主体的に育児にかかわろうとする意識を弱体化させ、他人任せにする意識が芽生えること」が問題なことを著者は認めているが、三歳児理論を否定することは正ににそのような傾向を助長させることなのである。そのような意識の蔓延を防ぐ「子どもが可哀想」という言葉も認められるはずだ。
 主たる養育者が保育園と家庭とで複数存在せざるを得ない「複数マザーリング」の問題に対しては、著者は愛着には優先順位が存在するから心配が無いとする。しかし、母親が主として育児をしないならば、母親よりも保母を優先して愛着することにもなる。そうすると保母は早くに居なくなるので子どもは幼くして一番大切な人を失う喪失体験をすることになる。三歳児理論を否定すればそういうことが多くなる。
「仮に母親が家庭で養育に当たっている場合でも乳児に拒否的であったり無関心であるならば」保育園に入園する方が望ましいケースも有り得るという指摘を著者はする。しかし、母親が育児に関心を持つ方が望ましく、母親が主として育児を行う事が社会的に否定されれば、その無関心な母親の存在が助長されるのだ。
かっての村落共同体では家ぐるみ、地域ぐるみで行われており、複数マザーリングが適切に機能していたと言う。しかし、その場合も主たる育児は母親が責任を持っていとたというのが事実だ。
 ゴッドフライドの縦断研究では、「全般的結論として乳幼児期の発達状況、児童期の任地の発達、社会性の発達、行動上の適応や問題点、学業成績等において母親が働いている場合と働いていない場合とでいっさい差異が認められない」という。この研究では育児を主として母親が担っているか否かを区別していないので、主として母親が育児をなすべきという考えを否定することはできない。この研究では児童期以降の少年期や青年期における心の幸福などの影響は測られていないようだ。また、「働いている母親は子どもに対してより高度な教育的態度を持ち、それが子どもの認知発達や学業成績、社会性の発達を促進している」し、「母親が働いている家庭では父親の家庭への関与が大きくなり、それが子どもの発達のいくつかの側面にプラスの方向に作用している傾向」があると言う。こういう傾向は男女平等イデオロギーが高い教育を受けた女性に影響を与えやすいことを示している。また、こういうプラスがあるから、本来の悪影響が打ち消されているのではないか。そして、ゴルドバーグとイースターブルークスらの研究では、母親の就労が父親に対して否定的な影響を与えることが認められている。この否定的影響は父親が主夫を押し付けられたとき、顕著になる性質のものだろう。
 実際に母親が働いている子どもたちが母親が働くことの是非の両面をバランスよくとらえるのは、非の面を感じつつも、自分の母親を弁護したいからである。
 著者の言及するYちゃんも自分の母親だから弁護したとも、単に執拗な追求に怒っただけとも取れる。
 そして、女性が生むか生まないかについて決定権を持つのだから、自己の決定の結果である子供についても第一に育児の責任を負うべきだ。

 私の立場からは専業主婦は積極的に評価される。しかし、その社会的評価は現在十分と言えないので、男女共同表彰・叙勲制度などを提唱している。また、夫は父性の役割を果たすとともに積極的に家庭サービスを行うべきだ。
母親が働く兼業主婦も認められる。母親は主として育児・家事をなすべきだが、父親は主として家事を補助し、幼児期以降に父性の役割を果たすべきである。
キャリアウーマンも認められるが、社会は主夫を積極的に認めるべきではない。
パーフェクト・ウーマンがいれば、それはそれですばらしいことだが、夢想に近い。社会は不可能を推奨するようなことはすべきではない。
 この点から、アメリカの社会学者コマロフスキーの研究を考えてみる。
平等な男女関係を歓迎する意識はキャンパスライフまでであり、将来結婚相手となる女性に何を求めるかという設問に対する回答には問題があると言う。
回答には専業主婦をもとめる「伝統主義者」のタイプ、男女平等を認める「フェミニストタイプ」、パーフェクトウーマンを求める「インチキ・フェミニスト」タイプがあり、そして最も比率が高いのは男性に依存しない自立した女性が好きだが子どもが生まれたら妻は子育てに専念すべきだと言う「修正伝統主義者」タイプだという。
「インチキ・フェミニスト」が生まれるのはアメリカ社会がパーフェクトウーマンが存在し、それが理想だとするからであろう。
 修正伝統主義者は男の本音に近い。これは対等なパートナーシップを期待させるが、子どもが生まれると母として家庭に閉じ込めるので問題だと言う。著者の男女平等の考えからすれば、育児・家事も平等に分担すべきということになるだろう。しかし、現実には家事・育児を二つに平等に分割することなど極めて困難である。母親か父親のどちらかが主として担わざるを得ない。私の立場では専念すべきとは言わないが当然、母親が主として担うべきだし、修正伝統主義者もそう考えている。社会的にも母親の責任が確立されていれば、母親が育児を主として担わされて裏切られたと感じることも無いはずである。

3

「幼少期の子育てを人智のコントロール下に置き、その責任の大半を母親に託すという考え方が登場したのは、大正期の半ば」であり、近代のイデオロギーだという。それ以前が、「幼少期は人智が及ばないとする諦観とともに、それゆえに大切に見守ろうとする考え方」を持っていたとしても、現実には世代間で伝えられる知恵に基づいた世話が注意を持ってなされていたのである。そして、家ぐるみ、地域ぐるみで世話がされていても、主たる育児・家事は母親が行っていた。田の畦に乳児の安置された籠が置かれ、母親は農作業の合間を見て世話をしていたし、日が暮れかかって農作業の能率が落ちると、母親は先に帰されて育児・家事を行い、残った者は真っ暗になるまで農作業に励んだのだ。
それ以前の社会でも役割分担はあった。素人数人よりも専門家一人の方が役に立つことが多いという事実に基づくものである。一つのことに習熟しそれが得意な者にそのことを任せた方が能率が上がるのが道理である。その役割分担がが、産業革命に伴う職住分離で夫は外で仕事、妻は家庭で育児・家事と明確になっただけである。
 この近代のイデオロギー性を例証するために、「フランスの教育学者バダンテール(一九九四)は、一八世紀後半のパリの人口統計から、当時一年間にパリで生まれた乳児二万一千人のうち、母親で育てられた乳児はわずか千人に過ぎなかった実情」をあげ、里子の養育環境は劣悪であったと言う。私の三歳児理論によれば、彼らが社会を敵対的と見なして大革命に走ったのも不思議ではないと言えよう。
 著者のよって立つ男女平等思想こそ、現代的なイデオロギーである。
 戦前よりも現在は母親失格が多いのはなぜか。
戦前にはイエ制度の下、大家族も多く、世代間で育児を分担したり、知恵を伝えることがまだ、なされていた。地域社会も根強く、母親をバックアップしていた。それに加えて戦前には男女の性差を認め、女性特有の教育が行われていた。育児・家事を母親が担うのは当然のこととされ、女性はそのことに対し覚悟をするとともに、それに立ち向かう知恵も授けられた。しかるに、現代は男女平等として上のようなことは為されず、男女が平等に育児・家事を分担することが理想だと言う。そのため女性が現実に育児・家事を担わされたときに、それに立ち向かう知恵も持たずに育児に行き詰まったり、男女平等なのにこんなはずではなかったと不満をかこつのである。家事も育児も嫌いでない女性でさえもこんなことでは無かったと不平を言うのは男女平等のイデオロギーによるのである。
「母親の内部の自己が限界を越えて肥大してしまっている」「母親の内部の自己が肥大した分だけ子どもの存在が見えなくなっている」と評論家芹沢俊介氏が言う。確かに、著者が言うように「母親が子育てに励みながら、子育て以外にも生きがいとなる生活を求めるのは、けっして自己の肥大ではない」。しかし、自己の夢の実現に囚われて子育てをいきがいとして励むことができないのは自己の肥大である。自分さがし・夢の追求に囚われて子どもが邪魔になっているのである。
 女性に母親の基礎的な適性があるのは前述のとおりだが、著者の言うように母性が作られるものであることも事実である。だからこそ、性差を認めて女性に母親となる教育を行うべきだ。社会的に母親の責任が認められ、それに知恵を持って立ち向かうときには大きな満足が得られるだろう。
 また、母性愛賛美の風潮は母性愛が作られたものであるから、必要なのである。理想を掲げることによって、母性愛を維持する努力を励ましているのである。武田鉄矢さんの母親、イクさんを例に引いて、「働き通して子育てをする女性を賛美するのなら、母親が働くと子どもがおかしくなるなどというせりふは、けっしていえないはず」と言う。イクさんのような母親は主婦でもあった。「働き」ながら、立派に育児・家事もおこなった。しかし、その「働き」は自分のキャリアのためのものではなかった。主として家族のために働いたのである。主婦を否定し、自分のキャリアのために働くことを推奨する立場のための例とはしないで欲しい。また、私は母親が働くだけで子どもがおかしくなると主張するつもりは無い。母親が母性を持つ主婦としての役割を果たさなければ子どもがおかしくなることが多いと言っているのである。
 著者の学会へのデビュー論文の一部である母親意識の世代間に対する調査結果である表一のA世代(東京女子高等師範学校時代の卒業生)が満足すべき状態にあったことが述べられ、仕事を持つ母親の正当性の論拠に使われている。しかし、A世代は成功した兼業主婦の例である。家庭においては自分も社会も女性の仕事と思っている家事・育児を主婦として行って責任を果たし、かつ学校においては女性にふさわしい仕事とされていた教師の仕事を行って社会にかかわったからこそ、深い満足が得られたのだ。
C世代(一九六〇年代半ばから七〇年代)の卒業生が育児をしても満足を得られないのは、男女平等思想の下、女も男と同じ自己の夢の追求のための自己実現を行うように吹き込まれているからだ。育児・家事は自己実現になりうるといってもそれは他者への奉仕による喜びであり、自己への奉仕である自己の夢の追求のための自己実現とは性質が違う。そのため、現実に育児・家事を負担したときにいらいらしたり、家事・育児が夢の追求の邪魔だとして嘆くのだ。それにはもちろん、周囲から援助が得られないということも寄与しているが、それは大家族を拒否し、地域社会も崩れつつあるからなのだ。だからこそ、育児・家事について教育を受け、覚悟と知恵を身につける必要があるのだ。
 しかし、夫婦である以上、夫も妻を助けるべきだと言える。特に兼業主婦の夫は積極的に援助すべきだ。しかし、それはまるごと受け止める母性としてのものではなく、父性としてのものであるべきだ。

4

 確かに、古来から慈母ではない母親がいたし、厳父ではない父親がいた。しかし、母親の多くはまるごと受け止める愛情を与えて来たし、父親の多くは社会の厳しさを教えて来たのだ。ここで言う厳しさは、村落共同体でのみ通じる厳しさではない。都市でも父親はその中の厳しさを教えて来た。複雑な価値観が交差する現代でも通用するものがある。それは、暖かく優しく包容される家庭などの中とは違い、社会で生きるときには筋や論理、合理性が尊ばれると言うことだ。父親は暖かくあるべき家庭内でも、社会内で通用しない非違が行われ、筋や原則、論理、合理性が大きく損なわれたときにそれを回復する役割を果たすべきだ。また、子どもに課題を与えそれをやり遂げたときに社会内でも立派なことだとして誉めてやり、子どもに自尊心を植え付ける役割を果たすべきだ。マズローの要求の階層で説明すると、母親の愛情は情動を満たすが子どものことを何でも母親がやってやることで子どもが自尊心を築くのに失敗することがあり、アドラー的段階には父性が関与すべきなのである。だから、父親は幼児期以降に母親に密着し過ぎることを防ぎ、母子の狭い世界ではない社会の広い世界に目を向けさせる役割を果たすべきだ。この点は、少子化の時代に重要である。なぜなら、次の子どもが生まれることで母親の主たる関心は次の子に移り、長子は自然に広い世界に目を向けるものだが、少子化で次の子が生まれて来ないからである。また、父性は過度の母子の密着を防ぐ役割を果たす。
 こうした「いざ」という時を会社人間の父親が知り得ないとことも存在するのが事実である。しかし、主として家事・育児を担う母親とのコミュニケーションが取れていれば、「いざ」という時を母親からの情報で知り得るはずである。だから、これは父性の問題というよりも夫婦の問題なのだ。そしてそういうことができない会社人間が存在せざるをえないのは、日本が経済戦争を戦っているからだ。この際限の無い競争を緩和し人間性の回復を行うことを救世国民同盟は主張する。
 子どもをまるごと受け止める母性とは違う父性が必要なのだ。
 こうした父親の役割を十分果たしていない父親も少なくない。それは、母性と同じく、父性も作られるものだからだ。著者は父親が育児に参加しないので、人間的成長が無いというが、父親は社会に揉まれて人間的に成長して行く。しかし、それは父性の基礎にはなり得るが、なお教育が必要な部分もある。父性も母性も教育が必要なのにそれが行われないのは男女平等イデオロギーによるものだ。
 私は性差に基づく男女対等の立場から、学校で父性教育、母性教育が行われるべきだと考える。そして父性教育では、女性が主婦として下支えしてくれるからこそ、よい仕事をして自己実現し家庭も持てるのだということを徹底し、まちがっても食わせてやっているのだという意識を持たないこと、父性の意義、家族サービスや、女性が大変なときの援助の必要性を教える必要がある。
 女性が男女平等を振りかざして母性の役割を放棄しようとするからこそ、男性はそれに抵抗し、女性に積極的に協力しない事実もあるのだ。女性が母性の役割を積極的に引き受ければ、男性も積極的に援助するという面があるのだ。
 また、母たちが子どもに恵まれない同性に対して心ない仕打ちをすることがあることを指摘しているが、母性の仕事が男女平等イデオロギーのせいで女性内でも社会内でも正当に評価されていないから、子どもにめぐまれない同性を攻撃することで優越感を満たしているのだ。本当に優越し満たされている人は仲間を攻撃したりはしない。

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 男女平等で家庭が維持できると言うのは幻想に過ぎない。夫と妻がそれぞれに自分のための夢を追い続ければ大部分の家庭が崩壊して行く。家庭が崩壊すれば、結婚のメリットが薄らぎ、縛り合うだけの関係は止めるべきだとして結婚が無くなる。愛を結婚に結実させる必要が無くなれば、男女の愛が無くなり、恋だけが残る。男女平等が進行する間に男と女を引き付ける文化的魅力が失われ、恋が無くなり性的快楽が残る。家庭などの絆が失われ男女は愛ではなく利益により結びつくようになる。原子化され平等な男女関係という名の下に強者が弱者を踏みにじり性的関係を恣にするようになる。この間に男女の肉体差も少なくなり、快楽も減じて行く。生殖は試験管に委ねられ、単性的な人間が権力と(それに名誉)を唯一の価値とする世界ができあがると言う訳だ。
 私は唯物論に立たない。男と女は精神は平等だが、肉体には差があるのだ。
「家事・育児の負担が私にかかるばかり。離婚もよぎるこの頃です」という人生相談について著者の言う「正解」を述べている。この人生相談は家事・育児を助け合ってお互いの仕事を両立させようと約束して結婚したのに仕事を生きがいとする妻に育児・家事の大半を押し付けられている夫からのものである。この内容が夫からのものか、妻からのものか不明にして解答を求め、雑誌の編集者なら掲載不能として却下せざるを得ない回答ばかりだと言う。しかし、社会の通念からして、不明な内容は妻からのものと考えるのが自然であり、夫からのものとする回答を求めるのなら、編集者は当然そのむね注意しただろう。これを夫からものと見抜けた人は、男女平等が進んで母性を無くした女性の現実を見て来た職業だからである。この問題は問い方が悪い設問に過ぎない。
そして、この女性は男女平等イデオロギーの立場から見てもひどい女性である。
男女平等イデオロギーでも約束を否定する訳では無いだろう。また、平等イデオロギーに忠実であるなら、女性も家事・育児を分担すべきであろう。また、男性の立場を考える思いやりにも欠けている。
 この家庭では「常日頃世話をしてくれる父親の方になついている」として、母親に優る存在は無いということを否定する主張を著者はする。しかし、なつく事実があったとしても、母親の愛情の方がその子どもにとっても社会にとっても望ましいのである。「子どもの成長を責任をもって援助しようとする愛情豊かなかかわり方」はまるこごと受け止める愛情を持つ母性が最も適確なのである。
 夢を追いかける女性の小説の背景にも帰れる場所として温かい家庭が描かれる。しかし、すべての女性が夢を追いかけ続ければ、家庭もそれを支える社会も成り立たないのである。私は若い女性が自己の夢を追いかける道を閉ざせと言っているのではない。(だが、主夫は認めることができない。父性、男らしさを価値とする文化に反するからである。但し、認められないと言っても社会的に推奨することが認められないと言うことで個々のやむを得ない事情に応じた主夫を否定するものではない。)ただ、初めから主婦を選ぶことも、夢の実現が難しいと明らかになったときに主婦の道を選ぶことも何も恥ずかしいことは無いということだ。主婦は社会を下支えしている(「エゴの世界」参照)。男だって夢を実現できる人はそれほど多くないし、厳しい戦いを不本意な仕事を家族のためにと耐えている人は多いのだ。無条件の夢の追求・愛の追求を賛美して失敗したときに誰が責任を持つのか。地道に社会を支える人々も必要なのだ。完全に夢を実現できる仕事はそんなに多くは無い。
 人間の幸福と精神の向上についての科学的観点から以上を考察した。
 なぜ、この本をここまで論破できるかというとこの本のよってたつフェミニズムは男女の自然な関係・人間の幸福の元である血縁に基づく家族家庭を破壊しようとする屁理屈に過ぎないからだ。
 なぜ、男と女の関係が特別視されるかについての研究もあるらしいが、そんなのは第一に男と女の間にしか自然に子供は産まれないからに決まっている。そして、男女が互いの役割を尊重し互いの魅力を高めて惹きつけなければ、男女が対立し男という種族と女という種族の戦争にまで至ることがあり得るからだ。
 さらに忠告する。女性が美しいのは女性が自らの役割を果たし魅力を高めてきたからだ。
 男性と女性は、担って来た歴史、生殖器、姿形、力の強さ、精神の在り方、心の傾向などが明らかに違う。
 私はその性差に基づく、男女対等を主張する。
 著者は性差を無視した男女平等というイデオロギーを押し付けようとしている。
そして男女平等が不十分だから問題が起こっているのではなく、男女平等が進み過ぎたから問題が起こっているのだ。
 最後に私の信条に属する意見を述べる。私は人間には物質とは別の範疇の精神が宿っていると考えることから魂の転生を信じる(男から女へ、女から男への転生もある)。
従って、このことからも男と生まれたときには男の、女と生まれたときには女の役割を果たすべきと言える。
 千年王国とは権利ばかりを主張し他人の荷を重くする社会ではない。
 千年王国とは各々が各自の責務を果たして他人の荷を軽くする社会のことだ。


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