トップページへのボタン 救世国民同盟の意見へのボタン あなた方への呼びかけへのボタン 救世国民同盟の政策へのボタン 救世主は誰かへのボタン 救世国民同盟からのお知らせへのボタン
メールマガジンへのボタン リンク集へのボタン ゲストブックへのボタン よくある質問へのボタン
前のページへのボタン 次のページへのボタン

ジェンダー秩序の本質
2003年6月21日

出典が明記されていない引用はすべて「ジェンダー秩序」(江原由美子著、勁草書房刊)よりの引用です。pが付いているのはすべて「ジェンダー秩序」のページ数です。「著者」とは「ジェンダー秩序」の著者のことです。また、小見出しの題名は読者の便宜を考えて、私の考えに反するものもなるべく著者の使用したものと同じものを用いました。


■1 基本枠組みの検討

◆第1章 予備的考察

★性差のありか

この本では「生物学的性別はけっして男女を明瞭に区分するものではない」(p4)として生物学的性別の導入を拒否します。しかし、男性、女性は生物学による区別を基礎とする概念です。しかも、生物学的区別による男性はほとんどが男として振る舞い、生物学的区別による女性はほとんどが女として振る舞います。私はその男らしさ、女らしさ、すなわち観察可能な男女の性差がどうして生じてくるのか考えたいと思います。その前提として、男性、女性を定義したいと思います。まず、女性が定義されます。女性とは子宮とその附属器官(以後、「とその附属器官」は省略します)を持って生まれた人です。男性とは子宮を持たずに生まれた人です。生まれによって区別するのは女性が出生後、病気などで子宮を失うことがあり、その人たちを女性に含めるためです。また、彼女たちは子宮を持っていたことなどで既に女性性を有しています。そして、この女性の定義の理由は女性の本質が産む性であるからであり、子宮がその本質を最も良く表しているからです。これに対して、男性は産まない性・産ませる性であることになります。
男女の生物学的性別については次のように考えられています。

「男女の性別はいろいろな点からなされます。
@細胞の立場からは、男性は核の中の性染色体がXYであるのに対して、女性はXX。オリン
 ピックなどの競技スポーツでは、選手の男女の同定はこの方法が採用されている。
A性腺として男性は精巣を持っており、女性は卵巣を持っている。
B内性器では男性は精嚢と輸精管を持ち、女性は卵管と子宮を持っている。
C外部生殖器の形が男性と女性で違う。
D男性はよく発達した筋肉と低い声を持っており、女性は豊満な乳房と高い声を持っている。
E脳の構造が男性と女性では違う。それに伴って心、行動の上で男女間の差が生じる。」
「脳を活性化する性ホルモン」(鬼頭昭三著、講談社ブルーバックス、88〜89頁)

@が遺伝子による性別(遺伝的性別)、ABCが生殖器による性別(生殖的性別)、Dが肉体の特徴による性別(肉体的性別)、Eが脳、すなわち心の性別と行動に表れる性差を述べていると言えるでしょう。
 このうちEの心の性別については、私の考えによると、二つに区別されます。すなわち、生物的形質による性別(生物脳)と心理的構造による性別(心理脳)です。生物脳は誕生時の脳の性分化により決定され、脳の形態が男性と女性とでは異なるようになります。心理脳はそうして決定された生物脳がどのような構造特性を有するかによる区別です。考えることは脳神経を配線することです。生まれてからの考え方が男性的か女性的かにより脳の内部の構造が決まって行き、それが性別に応じた特性を示すということです。
 私は生殖的性別が男性、女性の本質を与えると考えるのです。遺伝的性別は男性か女性かを決定するだけで、その本質の根拠ではありません。遺伝的性別により決まった生殖器が男性と女性の本質を与えると考えるのです。性が生殖に関する概念である以上、こう考えるのは自然なことです。そして、その生殖的性別を生かすために、胎内での脳の性分化時に原則として生殖的性別に一致するように生物脳が決まり、その後成長して大人の脳が形成されて行きます。生まれてからは、原則として生殖器に一致するように脳の可塑性に基づいて心理脳が形成されて行きます。この生殖的性別と生物脳、心理脳の不一致が性同一性障害をもたらすのです。
 こうした生物脳、心理脳の形成にはホルモンが働いていると考えられます。また、実際に行為する際にも影響を与えることが考えられます。

「これらの研究が進むにつれて、脳の広い部位でいくつかの神経活性物質系で性差があることがわかってきました。代表的な神経伝達物質で、アルツハイマー病と関係の深いアセチルコリン系の合成酵素である、コリンアセチルトランスフェラーゼやムスカリン性およびニコチン性受容体は、脳の広い範囲にわたってその分布に性差が見られます。また、もう一つの重要な神経伝達物質であるノルアドレナリンの受容体にも性差があります。これらの性差は嗅球から脊髄にまで広がっており、内分泌系のみでなく脳全体の活動レベルや脳の高次機能にも性差があることを物語っています。
 内側視索前野ではその大きさとは反対に、雄では雌に比べてエストロゲン受容体の数は少なくなっています。ヒトでも視床下部前野の核で、その大きさのみでなく、性ホルモンの受容体の分布に多少の性差があり、男性の方が少ないことが知られています。
 男性ホルモンのテストステロン受容体の脳内での分布は、エストロゲンのそれとほぼ同じで、分布上の性差についても、エストロゲンの場合と同様に海馬、扁桃体内側核、視床下部弓状核、腹内側核、内側視索前野などに見られます。
 こうした脳内のホルモンやホルモン受容体の分布による性差が、どのような形で男女の違いとなって現れてくるかは、これからの研究課題です。」
「脳を活性化する性ホルモン」(95頁より)

 著者は「ジェンダーという概念は、そうした観察可能な男女の性差を、男女が生得的な相違としてではなく、社会的文化的に形成された相違として見るという仮説を含んでいる。」(p4)と主張します。しかし、私は観察可能な男女の性差は社会文化的に形成された面があることを認めますが、性差の基礎には男女の本質が働いているという仮説を考えます。したがって、著者の仮説を共有しないので、私の考えに基づく性差を「生物文化的ジェンダー」と記すことにします。
「このジェンダーという概念が生まれてきたきっかけは、観察可能な男女の行動や態度や能力の相違を、男女の生物学的相違に還元するような近代の性別についての考え方に対抗するためであったからである」(p5)と述べます。私は生物文化的ジェンダーの基礎に生物学的相違を考えますが、その相違とは女性が産む性であることです。この産む性であることに基づいて観察可能な男女の性差を体系的に説明した学説は私の知る限り近代の科学には見あたりません。私の産む性に基づいて男女の観察可能な性差を説明しようという試みは、著者のように性差のすべてを社会文化的に説明してしまおうという仮説を立てるフェミニズムに対抗しようとして生まれたものです。


★心について

☆心の社会的構成

著者は心にかかわるふるまいの研究こそが心の研究そのものだと主張するためにクルターに言及します。しかし、この本の説明で判断する限り、クルターが述べるのは、心が脳にあることを認めた上で、直接脳を研究することはできないので、脳からの指示によって生じるふるまいなどの外観を研究する他ないということのようです。そして、脳科学が進歩した今では、やはり外部からの刺激と関連して意味を持つものですが、脳の状態を機械により直接測定できるようになっています。


☆エスノメソドロジーをはなれて

著者は「そうした性差を仮定する目的が性支配という状況を説明するモデルを立てるためであり、それを条件として性支配を論じることにある」(p14)といい、自分の考えのイデオロギー性について弁明します。
ある研究を行うときに、研究者に何らかの動機があることは確かです。しかし、研究の方法が客観的合理的なら、通常動機を問題とする必要はありません。私は著者の方法が客観的合理的かどうか検討しつつ、私の考えを検討します。


★社会的行為と権力

☆ウェーバーの社会的行為論

著者はウェーバーの行為概念が行為に主観的意味を持たせていることを批判しようとします。「社会的行為者は主観的意味を持って行動しているとされており、社会学者はそうした社会成員の社会的行為が含む主観的意味を解釈によって理解するとされている」(p16〜17)点をクルターに反するとします。しかし、クルターの方法は上に述べたようなものであり、ウェーバーの方法によっても、解釈の材料として脳からの指示によって生じるふるまいなどの外観を用いて、社会的行為が含む主観的意味を解釈して理解するなら、何ら矛盾しません。
著者はウェーバーの社会的行為の概念によると、赤信号の前で単に習慣的に信号待ちをしているに過ぎない人は主観的意味がないので、社会学の対象である行為にならないとして批判します。しかし、この人のふるまいは習慣という規範的意識、すなわち主観的意味を持つ立派な行為であり、ウェーバーの立場でも、立派な社会学の研究対象です。そして、著者は赤信号を見て意図して待っている人と「他者にどうやって区別ができるのか」(p18)と言って批判しますが、意図的か習慣的かということは色々な付随状況を解釈にして判断できますし、後でその人にインタビューすることもできます。
著者は他者との間の社会的相互行為こそ、社会的行為として定義されるべきだとして、ウェーバーの社会的行為の定義・「主観的意味の中に、他者に関わる志向が含まれている行為」が失敗しているとします。しかし、ウェーバーの社会的行為概念は社会学の重要な研究対象となる行為を確定するためのものであり、「単に他者の行動を予測しつつ行う行為」をも重要な研究対象とするためのものなのです。確かに、他者との間の社会的相互行為は最重要ですが、社会的行為に含まれる「相互社会的行為」とでも定義すれば良いのです。


☆社会的行為能力は「心」だけによっては決まらない

著者は「通常の社会学者が考えるように、行為を意図を含む行動と考えることは、私たちが他者の意図を脳の生理機能などによって直接把握しているわけではなく、心にかかわるふるまいという社会慣習を基礎にして把握しているのだということを自覚している限りにおいて、妥当なことだと思う。しかしそう考えたとしても、そのことは、私たちが社会的行為を意図だけによって行いうると考えなければいけないということとイコールではない。」(p23〜24)と述べます。ウェーバーを含めイコールだと考える科学者は通常居ないでしょう。そして、著者は他者の心にかかわるふるまいが「社会成員の社会的に行為できる能力の大きさに影響を与えることになる。」と述べます。しかし、私たちの立場では能力は行為者に帰属するものであり、他者の心にかかわるふるまいは能力行使の環境ないし状況として働き能力行使の態様及び結果に影響を与えると考えることになるでしょう。

◆第2章 ジェンダーの社会的構築

★ジェンダーの社会的構築

☆社会構築主義

著者は社会構築主義に従い、「社会構築主義とは、社会的世界は、社会過程の所産であるので、その世界や人々には何らかの決まった、一定の特質はありえない 事物や人々を今ある通りにしている、それらの内部の本質は存在しないという立場から、社会的世界の考察を行う立場をいう。」(p28)と述べます。この社会構築主義とはまったくおかしな立場です。
人間は心を持ち、その心は次のような特質を持つ、知性・感性・意志という本質を有します。

「知性とは、世界の構造を努力により、できるだけ客観的、体系的、整合的に内面化したものである。これにより人間は世界の構造を理解し、世界の構造に適合した働きをすることができるようになる。
 感性とは、自己にとってどういう価値(好き・嫌い、善・悪、快・不快等)を持つかの情報を内面化したものである。これにより、人間は世界に独自の意味付を行うことができる。人間が独自の価値観・価値の体系を持つことが可能になる。そして、価値が存在するのは人間が現存在であることによる。すなわち、人間は自身の構造―世界を持ち、その世界について意味付を行っていかなければ生きていけないからである。人間は意味のない空虚な真空を生きるには弱すぎる。
 意志は、生きるということを支える力であり、人間の存在を可能にするものである。すなわち、人間が生存を欲し、ある価値を追求するのは、これが存在するからである。いわば生命を求める人間の本能である。」(拙著「新しい哲学の原理」より)

このような心に内面化され、構造化された知性・感性・意志に基づいて人間は行為を行うのです。このような本質があるからこそ、人間は主体的に、個性的にふるまうことができるのです。社会構築主義は事物や人々を成り立たせている本質を見ようとしないイデオロギーに過ぎないと言えるでしょう。


☆社会構築主義の立場から見た「パーソナリティ」

社会構築主義ではパーソナリティにも本質が無いという誤った立場をとることになります。確かに、他と物理的に截然と区別できるパーソナリティなるものは存在しませんが、知性・感性・意志の構造中には人格の特質を与えるものが構造化されており、パーソナリティの本質を与えるのです。パーソナリティに本質が存在しないというなら、どこから個性を有する主体的意思が発現するというのでしょうか。


★二つの言説分析

☆テキストを読む実践

私の立場ではテキストを読む実践によって社会関係が形成される他に、知性と感性も構築されていることとなります。

※著者の分析のまとめ図




   A

     B
立場 構造主義やポスト構造主義のフランス哲学の流れに基づくもの
言語行為理論・会話分析・エスノメソドロジーの影響下にあるもの
関心 アイデンティティ、個我、個人的及び社会的変化、権力関係

われわれの社会的世界において広く流布されている知の脱構築や系譜学
言説の遂行的性質、つまり人々がその談話や執筆によって行っていること、彼らが達成しようとしていること
言説の埋め込み
話し手や書き手が話したり書いたりする時に具体的に置かれていた状況から独立した言説、すなわち流布されて文化的に利用可能な資源となった言説

具体的で文脈化された言語の諸遂行話し手や書き手が行う具体的な文脈の中で話したり書いたりするふるまい(言説)

具体的な場面における社会的相互行為の組織化に関して発話あるいは(視線や体の向きなどの)ふるまいが持つ効果あるいは機能であり、またその発話によってその場において組織化される社会的相互行為がどのようなものかということ
効果 その言説に接する人々を異なる諸権利と義務の体系のもとにおく カテゴリーセットが適用され、社会的相互行為場面における成員の発言権や発話権、あるいは社会的行為の遂行などに影響を与える
ジェンダーを構築するパフォーマンスの見いだされる場所
法・宗教・学問などにおける「広く流布している諸言説」 具体的な相互行為場面で行為を遂行することに関わる言説
照準する言説(最大の相違となる)
その言説が成立当初埋め込まれていた文脈から切り離された形で分析される

「諸言説-読み手」関係
場面に埋め込まれた言説

対面的相互行為場面
精神分析の利用 積極的に利用 利用を拒否


★ジェンダーから性支配へ

☆ジェンダー概念再考

著者はジェンダーが多義的概念であるとして「第一に、社会的文化的に形成された男らしさ、女らしさなどの性別特徴、あるいは性別アイデンティティを含意する。第二に、社会通念の中に分けもたれた男らしさ女らしさなどの観念や知識を意味する。第三に、男女間の社会関係を権力関係という視点から把握する研究上の視点を意味する。」(p59)と述べます。第一の点については私の立場では社会的文化的に形成された男らしさ、女らしさなどの性別特徴、あるいは性別アイデンティティには男女の生物的差異に基づく基礎を認めます。第三の点はあらかじめ、ジェンダーによる社会分析の結果が権力関係として現れなければならないと規定するものであり、そのイデオロギー性は明らかです。

◆第3章 構造と実践

★人格と社会関係

著者は「心あるいは人格は、発話あるいはふるまいの一連のまとまりとして把握されることになる。」(p62)とします。しかし、その人に特有の性質が生じる原因はその人が持つ本質、すなわち知性・感性・意志にあり、実体を持つのです。

★構造と実践

☆規則的な社会実践

「構造化の理論の最も重要な定理は社会的行為者のおのおのは、本人がメンバーである社会の再生産の諸条件について十分な知識を持っているということだ」(p71)と言います。これは、そのような知識を有している、つまり内面化している主体が実践を行うということです。


☆ブルデューにおける構造と実践

著者はブルデューの「問題なのは構造の実在論から逃れることだ。」(p73)という言葉を引用します。しかし、構造特性を支える実体が存在しないわけではありません。人間の心は構造化された構造という実体を持ちます。物は構造特性を発揮する機能を持つことで構造の実体となります。規範を含む制度文書には構造特性が書き込まれています。


☆ハビトゥス

「ハビトゥスとは、持続性をもち移調が可能な心的諸傾向のシステムであり、構造化する構造として、つまり実践と表象の産出・組織の原理として機能する素性をもった構造化された構造である。」(p74)「それはリスクと可能性を計算し利益を見込む。」(p75)
ハビトゥスは脳内にあり、脳内において構造化された構造であり、脳内においてリスクと可能性を計算し利益を見込む実践を行っています。


☆ギデンズとブルデュー

著者はギデンズとブルデューの「両者とも、行為の意味を個人の内面に求めるような行為のとらえかたではな」(p76)いと述べます。しかし、ギデンズの言うとおりに行為と構造は相互方向に構造化されていますか、行為が心(知性・感性・意志)に依存していることも明らかであり、ギデンズもそのことは否定しないでしょう。また、ブルデューのハビトゥスも心により実践されるものです。


☆性支配論への含意

著者は「第一に、構造は、実践や社会的相互行為と独立したものではなく、それと密接不可分なものとして把握できるということであり、第二に、そのためには実践や社会的相互行為を、固有かつ独自なものとして把握するのではなく、ある程度規則的あるいは持続的なものとして、把握しなければならない」(p78)と述べます。構造が実践や社会的相互行為と密接不可分であるのはその通りなのですが、だからといって個性的な心を持った人間が行う行為や実践が固有かつ独自なものとして現れることに目を瞑ろうというのはイデオロギー的です。また、固有かつ独自な行為と、構造が実践や社会的相互行為と密接不可分であることは、両立します。現実はそのような構造をしています。


★権力と支配

☆支配の内実

著者は「規則づけられた実践あるいはハビトゥスに基礎づけられた実践は強制されるものではない。むしろ行為者によって(半意識的に)積極的に採用されるものであり、その意味では自発的になされるものである」(p81)ので、他に支配の内実を求めなければならず、次にそれについて論じると言います。確かに、通常の支配という概念は関与者の行為選択を抗しがたく方向付ける威力の存在を前提にしてそれを権威として服従するという意味を持ちます。そして、ある支配に対して不当というイメージが出てくるのは強制が関わっているからです。主に、著者の支配概念に不当というイメージを与えるに相応しい実質があるかどうかという観点から著者の支配論を検討していきます。


☆ギデンズにおける権力と支配

※著者による説明
社会的実践  コミュニケーション 権力  サンクション
社会システムの構造 意味作用   支配 正当化
構造化の諸様相   解釈図式 便益 規範 


著者はすべての社会的実践は三要素を伴い、それと並行して社会システムの構造は三要素を伴い、構造化の諸要素にそれぞれ結びついていると述べます。そしてギデンズの立場では、「資源の非対称性が相互行為システムの権力関係、すなわち支配を意味する」(p84)と説明します。しかし、ギデンズの立場からは支配という概念に不当というイメージを与えるに相応しい実質がありません。ギデンズは社会システムの構造一般に支配という特性があるとしているからです。すなわち、あらゆる社会システムが支配のシステムであることになり、あらゆる社会システムが不当だとは到底言えないからです。


☆ブルデューにおける支配

著者はブルデューの社会的世界の正統的見方を押しつけるための闘争を意味する象徴闘争について説明し、その闘争において勝利の鍵となるのが、過去の闘争の中で獲得された社会的権威である象徴資本であるが、その分布に偏りがあるので、象徴闘争の結果が、不当なものになると述べます。確かに、象徴資本の偏りは不当な影響を及ぼしえますし、不当な影響もあります。しかし、象徴資本の獲得は大部分がその世界のルールに従って努力した結果得られた正当なものです。ある人が象徴資本を持つのはその人の努力の成果であることが大部分です。そして、象徴資本が不当な方法によって得られないために、例えば、学問の世界では真理が絶対の基準となり、政治の世界では、客観性、合理性、政治倫理などが判断基準として貫徹されるのです。現代は実力主義の世界であり、象徴資本の分布に偏りがあることから、一般的な不当性は出てきません。男性と女性の間で偏りがあるのを不当とするなら、それは男女平等イデオロギーに基づくフェミニズムからの主張です。


★相互行為水準の権力と支配/社会的地位水準の権力と支配

☆相互行為水準における権力と支配

著者の相互行為水準における支配概念が明らかにされます。「支配は、この相互に権力を行使しあう関係において、一方が首尾よく権力を行使できる度合いと他方が首尾よく権力を行使しうる度合いに著しい相違がある場合に、この両者の間になりたつ社会関係」(p107)として定義されます。しかし、この概念に当てはまるだけでは不当というイメージを与えるに相応しい実質はでてきません。この支配概念に多数の一般的社会関係が当てはまります。会社の上司と部下、学校の教師と学生、家庭の親と子、家族の兄と弟、宗教の師と弟子など。いずれも双方向に実践を行いますが、先にあげたカテゴリーが首尾よく権力を行使できる度合いは、後で上げたカテゴリーが首尾よく権力を行使しうる度合いよりも著しく多いのです。ですから、著者が相互行為水準における支配だと断定しても、それから直ちに不当というイメージを与えるに相応しい実質は出てきません。個々の社会関係の根拠などが有する実質を検討する必要があるのです。


☆社会的地位水準における権力と支配

著者は「社会的地位の水準における性支配とは、大きな権限を持つ地位にある人々の性比に相違がある場合に見いだされることになる。」(p108)とします。ある地位を占めるあるカテゴリーの人々の割合が、全体に占める存在割合よりも、大きいとしても、そこから直ちに不当という結果は出てきません。まず、地位に占める割合が大きいのは、その地位獲得競争に参加する割合が、他のカテゴリーの人々よりも高いことが考えられます。また、正当な努力の結果、偏りが生じることがありえます。男女の性比をそれだけで問題とするなら、それはすべての地位が男女半々でなければならないとするフェミニズムの男女平等イデオロギーの立場に立つからです。


★私の立場

以上、「ジェンダー秩序」の総論部分を検討して、極めてイデオロギー性が強いことが分かりました。イデオロギーとは科学と反対の方向性を特性とするものです。科学は理論を現実に一致させる方向を堅持するのに対し、イデオロギーは理論・思想に現実を一致させようとするものです。著者のイデオロギー性は本質を隠蔽しようとすることに明らかです。ここで、「ジェンダー秩序」の各論を検討する前に、生物文化的ジェンダーの基礎を明らかにしたいと思います。
女性の本質が産む性であることは既に述べました。女性は子宮の内に他者を持ち、他者を守って産まなければならない存在なのです。その本質から次のようにして脳に構造化される心性が導かれます。以下に述べるのは一般的なその心性の傾向です。
1.女性は胎児という他者を体内に抱え込みます。女性がその他者を排除するような心性を持っているならば、胎児が邪魔になってしまい、人間種族の子供が安心して生まれてくることができません。ですから、女性は他者に対して優しい心性を持つのです。
2.女性は体内で胎児を安全に育成し、安全に出産しなければなりません。ですから、女性は胎児の状態に気を使い、胎児の安全に配慮しなければなりません。このため女性は他者の欲求や必要に敏感で他者に配慮する心性が導かれます。また、周囲に争いがあれば、危険が生じてしまいます。ですから、女性は争いを好まず、平和を愛する心性も持つのです。
3.女性は胎児が安全に生育して産まれるように胎児に関心を持つ必要があります。女性は胎児という極めて身近な存在に関心を持つのです。そこから、同じ身近な細々としたものに関心を持つ心性が導かれます。
4.子供を産むには、その前提として男性を引きつけなければなりません。自分が男性を引きつける手段として女性は美を選択します。能力を選択するなら、能力を競う男性との争いが生じますし、美ほど強力ではありません。そして、男性の側に子供を守ることのできる能力を要求します。
5.女性は自分が体内で守って産んだ子供に愛着を感じやすいでしょう。自分が産んだことから責任感も生じやすいでしょう。上に述べたことから産まれた子供にも優しい。そして、乳房という子供を育てるのに適した母乳を与えることのできる器官を持ちます。
これに対し、男性には上述の心性の一般的傾向は存在しません。しかし、優しい男性や、争いを好まない男性、身近なものに関心持つ男性、美に関心を持つ男性、子供に愛着を感じる男性の存在を否定するものではありません。女性にだけ上に述べたような心性をセットとして生じさせる本質があるということです。男性は産むという人間種族にとって大きな役割を果たすことができないので、能力により、自分の存在意義を証明しなければなりません。女性のように一般的に身近なものに引かれる心性がないので、遠くのものへ関心を持ちやすくなります。それは能力を磨くためにも役立つのです。また、女性のように守るべき存在を抱えこまないので、攻撃性を発揮しやすくなります。このようなことから、遠くへ行くことを躊躇わない心性、物事を徹底することを躊躇わない心性が導かれます。
以上のような心性が脳という心に内面化構造化されるのです。このことから、生殖器官の相違の他にも女性と男性の体には相違が産まれるのです。私の第一哲学の立場では人間は精神が平等だが、物質が不平等とされます。男性と女性は同じ人間であるにもかかわらず、一般的に言って不平等な物質である体を持ちます。しかし、体は不平等でありますが、精神が平等であることにより、人間存在としての平等を基礎づけることができます。
ここで、私の考える生物文化的ジェンダーの意味を明らかにしておきます。
a.生物的事実としてのジェンダー。これは個々の女性、男性が持つ心性(脳に構造化されている)や生殖器官などの物質的事実としての性差です。
b.個人的規範としてのジェンダー。あるべき女らしさ・男らしさを個々の人間が心に内面化したものです。
c.社会的事実としてのジェンダー。人間の行為や書かれたもの、話されたものに見られる性差です。
d.社会的規範としてのジェンダー。大部分の人間が共有するあるべき女らしさ・男らしさです。
人間は生物的事実としてのジェンダーという異なる心性を持ち、その傾向と個人的規範としてのジェンダーによるイメージに従って、書いたり、話したりなど行為しますが、その行為は社会的規範としてのジェンダーにより、制約されているという関係にあります。
また、b.には重要な役割があります。a.に基づいた心性が行き過ぎた行動となるのを自分で抑えることができるのです。著者はa.とb.を完全に無視しています。
b.についてさらに説明します。〈弱いものを守る、潔さ、卑怯・恥を知るなど〉といった男らしさは男性の強さ・荒々しさなどの欠点を補い統御します。すなわち、男性が強さ・荒々しさを用いて何としてでも目的を達成しようとすることを抑制するのです。〈道徳感の強さ、生活力の強さ、慎みなど〉といった女らしさは女性の弱さ・優しさを補い統御する原理なのです。すなわち、女性が周囲の言いなりになるのを防ぎます。
このような働きをも持つ男らしさ・女らしさをフェミニズムは消滅させようというのです。


■2 ジェンダー秩序とジェンダー体制

◆第4章 ジェンダー秩序

★性別分業

著者は女性というカテゴリーに「他者が何を望み何を求めているのかということに気配りをし、その必要・欲求を満たす手助けをしたり、必要・欲求を実現しようとする活動を行いやすいように環境を整えたりすること」(p129)を割り当てるパターンがあると指摘します。たしかに、このようなパターンは存在します。しかし、それは女性の本質に基礎を持つものです。すなわち、女性が「私の立場」で述べた1.2.3.のように他者に優しく配慮し、身近なものに関心を持つ心性があるので、自分からそのようなパターンを望み、周囲もそれを期待するという面があるのです。そのようなパターンに従うことでそのような役割に習熟することも事実です。しかし、大部分の女性が抵抗なく習熟していくのは、女性の本質にそのような基礎があるからです。このことは女性が「自分の欲求や必要に対して顧慮することがより少なくなることを導く」(p134)と著者は指摘します。しかし、現代の個人主義の社会では、自分の個性を出すことが尊重されていて、女性が自分の欲求や必要を支配が帰結されるほど抑えることはないでしょう。女性は一方的に自分を主張したり自分を抑えたりする道よりも、自分の主張と他者の主張の両立を考えるでしょう。
「男は女によって自己の実践を手助けしてもらえることの確実性を根拠にして、女性よりも、より大きい社会的実践能力を持つことになる」(p131)と著者は指摘します。しかし、他者の手助けをする存在の最たる者である主婦に手助けしてもらえるのは男性ばかりではありません。女の子供も、女性の母親も、それから働く女性も。キャリア・ウーマンの女性も主婦であるその母や娘によって世話をしてもらえますし、パートタイマーとして働く主婦に補助的な仕事をしてもらえます。
そして、主婦に手助けしてもらった男性も女性も主婦に感謝し、恩義を感じるべきであるし、事実そのように感じている人間は非常に多いのです。また、そのように誘導されるべきです。
そして、活動の成果は男性と女性が共有すべきです。この点では問題があります。夫と一心同体となって夫の研究などを支えていたのに、いざ研究の成果が認められて表彰される段階になると、夫にだけ表彰の通知が届き、夫だけが栄誉を受けるというような現象です。これは明らかに不当です。ですので、私たちは男女共同表彰叙勲制度を提案しています。また、主婦として夫の仕事を支えていた女性が離婚した場合、夫婦の成果である年金の積み立ての金額を夫と妻が二分することを支持します。
男のふるまいや発語が女性のふるまいや発語よりも尊重される現象は昔よりは大分少なくなりましたが、存在します。この点では女性の役割がもっと社会的に称揚されるべきでしょう。
「多くの会社組織における女性社員の女の子扱い」(p133)は、男性と伍して競争する道を選んだ総合職の女性に対しての場合、不当でしょう。
「婚礼やセレモニーでの発言がほぼ男性に独占されていること、地域社会の会合などにおいて男が一家を代表するものと一般的に考えられていること、学校に提出する様々な同意書に書かれる名前が父親の名前である場合が多いこと」(p133)をジェンダー秩序の生み出す構造特性として指摘します。これらは家庭内で主婦が実権を握っていることの反面として主婦が家庭の外では夫を立てるという現象です。「銀行ローンの審査や保険の加入審査、年金加入資格などにおいて、女性は男性と全く異なる取り扱いがなされていること」(p133)は、女性と男性の事実としての生活様式が違うのでそれに対応した現象です。


☆社会的地位の獲得競争におけるハビトゥスの効果

「女性は、単にコストをより大きく評価する傾向があるだけではなく、より少ない利益しか見込めない傾向があるのである。こうしたコスト計算の結果、女性は男性よりも教育・訓練を受けるという判断をしなくなる。」(p137)と著者は述べます。しかし、こうしたコスト計算が大きな意味を持ち問題となるのは貧しい社会においてであり、豊かな先進国では妥当性が低いことが確かです。また、特に問題となる男と女のきょうだい間関係の場合でも、女性が一方的に損をするわけではないでしょう。譲ってもらった男性のきょうだいは姉ないし妹に恩義を感じ、出世した場合は特にその恩を返すでしょう。また、譲った女性は自らを道徳的存在として自信と誇りを持つことができます。


☆社会的地位の水準における支配と象徴闘争

著者は女性が「自らの世界観を客観的な正統的な世界観として呈示しえない」(p138)と述べますが、著者の主張が客観的合理的かどうかはさておき、著者を含めた女性によるフェミニズムの主張やその他の生活の実際に根付く女性なりの主張が盛んに行われていることは事実です。また、著者は性支配という自らの世界観を雄弁に語り、とどまることを知りません。


☆役割分担

著者が性別分業としてとらえている現象は一方が他方を支配するような不当なイメージを与えるに相応しい実質を持つものではありません。私は役割分担として捉えるべきものだと考えます。
役割分担とは各々がその特性に合った役割を、責任を持って担い、気持ちよくかつ上手にその責務を遂行して、能率や効率などの合理性を確保するものです。ある役割を担う適性を有する者が進んでその役割を担うことで、スムーズにその役割に習熟し、専門家として大きな力を発揮することができます。ある役割を担う適性を有する者が進んでその役割を担うことで、その役割が忘れ去られるのを防止できます。
男性と女性が共に平等に家事・育児を分担するのが望ましいでしょうか。男性と女性がともにフルタイムの仕事を持ちつつ、家事・育児を平等に分担するなら、男性と女性の双方の仕事に差し支えが出て中途半端に終わる可能性が大きいし、家事・育児も不成功に終わる危険性が大きいのです。男性がフルタイムの仕事を完全にこなすとき、少量の家事の分担でも負担になっていることを考えると無理でしょう。ですから、女性が家事・育児に責任を持つという役割分担が生まれてくるのです。
家庭では女性と男性がその特性に応じた役割を担っています。その関係は、一部の不当な事態を除き、決して一方的な支配ではありません。女性は家事・育児の責任主体となることで、男性に家事・育児の手伝いをさせたり、家事・育児に関して指示を与えたりすることができます。これに対し、男性は家庭運営の資金について責任を持ちますが、外で仕事をするので仕事の遂行そのものに関して妻に指示を与えることは通常ありませんし、稼いだ資金は妻が銀行口座を通じて受け取り、財布の紐は妻が握るという現象が見られます。
職場においても一方的な支配のような関係があるわけではありません。確かに、男性が女性に補助的な仕事を頼みやすい環境が存在します。しかし、その反面、女性は男性に仕事のノウハウを教えてもらいやすいし、汚い・きつい・危険な仕事を男性にしてもらうことができます。



★異性愛

☆異性愛

異性愛が人間の間で主導的なパターンとなる理由は、人間種族の保存のためには異性愛が必要なこと、その本能に基づいて人間が異性を引きつけるように努力しているからです。
著者は性的関係が定義において互恵的であることを否定します。その理由として、第一に「現代社会における多くの性的関係(と見なされている関係)は、相互の性的欲望のみから同意されているわけではなく、安全性の欲求や親密性への欲求、あるいは物質的利益など多様な欲望からも同意されている。」(p144〜145)ということを上げます。しかし、性的関係において男性と女性が受ける利益の内容に非対称性が存在するとしても、大部分の性的関係は男性と女性が受ける利益が向き合い、相互に対価的な関係に立っていることは事実です。相互に互恵的ではない性的関係が事実として存在するので、それを性的関係に含めるために、定義において互恵的であることを盛り込まないことには賛成しますが、大部分の性的関係には一方的な支配を支える内実はないのです。


☆異性愛というジェンダー秩序が生み出す社会関係

著者は男性を欲望の主体とし、女性を性的存在である欲望の対称とする支配的パターンが成立していると主張します。しかし、生物学的に見て、女性が性的存在と言うなら、男性も性的存在です。著者は「性的欲望に基づく実践をあまり行わない」にもかかわらず(だからこそ)性的存在となる」(p147)と述べますが、男性の欲望が、女性の欲望よりも強いことから言っても、男性は女性よりも性にとらわれた性的存在といえます。そして、男性が「女を獲得されるべきモノ 賞金 褒美などとして」規定すると言いますが、大部分の男性は女性が尊敬すべき人間として認めた上で、女性を性的関係に基づくパートナーとして獲得する競争を行っているのです。女性は男性よりも欲望を抑えられるので恋愛において落ち着いて対応することができ、恋愛において優位に立ちやすいのです。
著者は「女が性的存在であるのならば、その居場所は、性的関係が許容される場に制限されなければならない」ことから生じるものとして、「夫婦における妻の居場所を家庭に制限する規則」「宗教的修行の空間などから女を排除する規則」(p147)をあげます。家庭においてそのような規則が暗黙のうちに働くとしたら、それは一夫一婦制が夫と妻の双方に倫理的義務を課するからです。宗教的空間から、男性を排除することもみられます。尼僧院がそうです。宗教的修行はたいていが欲望の否定を目的とします。最強最大の欲望が性愛です。これをもたらすのが異性です。ですから、異性が排除されるのです。
著者は女性が性的存在であるから、「男性の性的要求を抑制し鎮めるのは、女性の責任という観念を帰結する。」(p148)とします。男性の欲望が強く、暴発しやすい傾向を持つが故に、女性が被害者にならないために、女性が慎みを持つことが求められるのです。しかし、男性が欲望を生じたからと言って、それを一方的に女性に帰責するようなことがあってはなりません。女性の責任で男性に欲望が生じても女性は嫌なら拒否しうる権利が社会的に確立されるべきです。反面、女性が男性にむやみな期待を持たせない態度をとる賢明さを持つべきです。
著者は「性規範のダブルスタンダード」(p149)を指摘しますが、これも男性から女性の方向だけではありません。女性も男性が他の女性に対して性的にふるまうことに嫉妬し悩みます。この男女の悩みは一夫一婦制により、相互の独占が公認される状態になることで止揚されるのです。
ミス・ミセスと女性が呼び方によって既婚か未婚か分かるのは倫理的なことです。ミセスと分かれば大概の男性は他者の幸福を尊重してアプローチを止めるでしょう。ですから、男性についても既婚か未婚かを区別する呼び方を導入すればよいのです。


☆相互行為の水準における性支配

著者は「女は性的関係を形成する際にその主導権を握ることができない」(p150)と述べます。しかし、女性が一旦決意すれば、性的関係を形成するのは男性よりもはるかに容易です。男性がする場合と女性がする場合とで比べてみると、ナンパの成功率は女性がする場合の方が、圧倒的に高いでしょう。これは、男性の欲望が女性よりも強いことや、女性が通常慎みを持って行動するからです。
「男は女をどのような場においても性的存在と規定することができる。」(p150)と述べます。これは女性にも当てはまります。女性はいつでも男性を性的欲望の充足を動機とする肉体目当ての性的存在と規定してその発話の効力を奪うことができます。
女性が「性的欲望の対象として自分を構成する社会的実践を行い続ける」(p150)のは男性に規定されたからではありません。女性の本質に基づきます。産む性として異性を引きつけるために美を磨く実践を行うのです。
著者は「男性に対して魅力的な服装をしているときには、その女性の言葉は、まじめに受け取られない」(p150)と述べます。下品に性的魅力を強調した服装をしているときは確かにそうでしょう。しかし、上品に美しいことによる魅力を持つ服装をしているときには、その女性の言葉は尊重されます。また、男性でも下品に性的魅力を強調した服装をしている場合、女性から相手にされないでしょう。
狭い船において船乗りから女性が排除されてきたのは、一般的に言って船員の大部分が男性であり、その男性が効率良く能率良く働くには女性が障害になりうるからです。すなわち、異性愛が主導的なパターンですので、女性が乗り込めば恋愛や性愛問題が生じる可能性が大きく、発生すれば愛憎や好悪の感情によって、船全体の能率や効率が下がるのです。また、危険な船においては特に船員のチームワークが重要であり、その障害となりうるものは排除されるのです。
著者が言うように「会社が未婚女性を性的欲望の対象とされることから保護されるべき存在としている」(p151)現象があります。著者も女性が性的欲望の対象となることを望んでいないはずですが。これは、女性は結婚して性的関係の対象となるべきだという規範の現れです。この規範は女性を単なる性的欲望の対象、遊びの対象と見る傾向を抑制します。そして、これは真面目な男性の希望、まっとうな女性と一から共に人生を築きたいという希望に合致します。
「旦那さんを差し置いて残業するわけにはいかない」(p151)というのは、主婦が家事・育児の責任主体であるからです。


☆社会的地位達成に与える影響

異性を性的欲望の対象とするのは男性だけではありません。女性も性的欲望を持つのだから。ホスト遊びをする女性もいます。
たしかに、女性には大別して主婦になるルートとキャリア・ウーマンになるルートが存在します。主婦になるルートは夫ともに自己の社会的地位を上昇させるルートでもあります。夫の仕事を家庭で補助することにより、夫の地位を上昇させて妻たる自分の地位も上昇するのです。この主婦という役割には、生物文化的ジェンダーという基礎があります。他者に優しく配慮する心性を持つから、夫や子供や親の世話に適性を持つのです。子供に責任感を持ち優しく配慮できるから、母性として育児を担当する適性を持つのです。主婦は自身のキャリアよりも他者の幸福のために労働する倫理的価値の高いカテゴリーです。また、主婦はその暇なときに社会を下支えする活動をすることもできます。その価値ある労働に相応しい待遇が為されるべきです。彼女たちは地の塩です。
私は主婦を「働かなくてもよい恵まれた自分の現在の境遇」(p153)と考えません。主婦は家事・育児という立派な労働をする存在です。その意義が認められるべきです。
主婦になるルートを選んだ男性が自己実現のために優れた男性を手に入れるようとするのは当然です。そして、キャリア・ウーマンになると決めた女性も男性に感心を持つのは種族の保存本能が恋愛を勧めるという面があります。男性も女性獲得競争を行います。ですから、恋愛競争は一方的に女性に不利に働いているわけではありません。確かに、女性は化粧や服装に男性よりも関心を持ち、そのことに時間を使いますが、それは女性が美を求めるからです。そして、表に現れる社会的地位達成において女性の割合が低くなるのは、主婦となるルートを選んで、その競争に参加しない女性がいるのですから、当然の結果と言えます。


☆社会的地位の男女間格差と象徴闘争

著者は社会的地位達成の男女間格差によって、「女性の性に関わる経験、特に暴力被害経験や妊娠・出産に関わる経験が支配的言説(広く流布された言説)の中に表現されにくくなる。」(p154)と指摘します。確かに、表に現れる社会的地位を達成した女性の割合が低いのでその影響力は男性よりも少なく、社会的地位のある女性が性に関わる経験を支配的言説にする影響力は少ないでしょう。しかし、それが意義のある言説であれば、社会的地位のある男性もとりあげるでしょう。女性運動も積極的にとりあげることができます。市井の女性個人でも現代では様々な表現手段があります。それに、女性の性に関わる経験が話されにくいのは、それがプライバシーに関わる最も個人的な経験だからでもあります。


☆性別分業と異性愛の関連性

性別分業のパターンにより「男を女に依存する存在としてしまう。」(p156)と著者は述べます。この現象は確かに存在します。女性が家庭内の権力者となり、財布の紐を握る現象があります。こうした現象は男性による女性の一方的な支配など存在しないということを証明しています。
男性には女性の拒否による「女性憎悪や女嫌いなどの心的諸傾向」も存在しますが、これは女性が拒否させる力を持つ強い存在でもあることを示しています。


☆異性愛の意義

異性愛は種族保存本能から導かれるものです。異性愛をやめることは女性をやめることもしくは女性という種族と男性という種族の対立、ひいては人類絶滅への道を歩むことです。異性愛のパターンとして観察される現象は、種族の維持本能を基礎とし、女性と比較して男性の欲望が強いことを条件として導かれる現象と、女性を単なる欲望の対象とすることから守る文化といえるでしょう。



★言語とジェンダー

☆ジェンダー秩序は普遍的・不変的な深層構造ではない

著者は「ジェンダー秩序を、あくまで歴史的に変動しうる社会的実践のパターンとして見出す」(p159)と言います。確かに、ジェンダー秩序は様々な形をとって現れます。ジェンダー体制はその現れです。しかし、それは人間の心性に基礎を持ちます。女性の本質から絶えず根拠が供給されます。でも、女性の産む性という本質をなくす道もあり得ることは事実です。このことにより、ジェンダー秩序はその本質においても永久不変ではないことになります。


☆言語的規則にあらわれたジェンダー秩序

著者は「私たちは言語的ふるまいによって社会的実践を行いうるのは、他者と共有する言語的規則にしたがって発話する場合に限られる」(p161)とします。確かに、言語の文法にまったくしたがわないならば、社会的実践を行えません。また、著者の社会的実践に関する定義によると、他者のふるまいの基礎となる規則の重要性は増します。しかし、基本的文法に従えば、相手は理解可能だし、コミュニケーションを成り立たせようとして理解を試みます。例えば、外国人の拙いたどたどしい言葉でも日本人は理解しようとしますし、幼児のたどたどしい言葉も理解されます。著者のいう言語的規則に従えば、コミュニケーションがスムーズにいく、効果がますというのが正確なところでしょう。

☆広義の言語的規則

※性同一性障害の問題については「性同一性障害について」 「性同一性障害者の戸籍変更」を参考にしてください。

著者は「自分の社会的実践を効果あるものにするために、自らそのジェンダーに関わる言語的諸規則にしたがうことを選択すると考えられるのである。」(p164)と述べます。確かに、効果的だから選択するという面があります。そして、効果的な理由は大部分が女性と男性の本質に合致するからです。同時に大部分が女性と男性の本質に合致し、従っていて気持ちが良いから従うという面もあるのです。


☆中村の言語自立観批判

著者によれば中村桃子氏の言語観を説明して、「中村のいう言語自立観とは、1 言語は社会から分けられる、2 言語を話し手の思考を伝える道具のようにみなしている、3 言語変化は自然に起こるという、三点を前提とする言語観」(p165)だということです。「それに対し、中村が対置するのは、1 言語は社会から分けられない、2 言語を使うことはそれ自体社会的行為である、3 言語を改革することはそれ自体社会を改革することであるという前提に立つ言語観」(p165)だと言います。この二つの言語観は言語の実際を二つの側面から観察して学問的方法として成立させたものと言えます。両立しえないものではありません。


☆私の立場

1について言えば、言語自体を扱って社会から切り離す研究方法は可能ですし、もちろん言語を社会過程の一部として扱うことも可能です。2について言えば、言語は社会的行為を行う際の道具だと言えます。3について言えば、言語は自然に変化することもあるし、意図的に変えて社会改革に利用することもできます。


☆人間=男観

文法に見られる人間=男観について著者は「この規則を正しい文法規則として定めていった文法学者の規範文法の構築過程に性差別的偏見が介在していたという研究」(p169)を上げています。しかし、文法学者は日常言語を前提としてそれを彫琢するものであり、文法学者が公認する前に、日常言語レベルでそのような傾向が存在していたと考えられます。男性が活動の主体として現れることが多いため、女性が男を立てるために、男性に人間を代表させていたと考えられます。
少年少女を少年に代表させるのは、どちらかで代表させるのが短くて便利だからであり、少年により代表させるのは、人間を男性で代表させる文法も影響しているのでしょう。しかし、少年には少「女」と違って「男」という単語は入っておらず、少女で代表させたときの方が抵抗感が大きいと考えられます。少年と少女どちらかで代表させなければならないとしたら少年の方が適当でしょう。


☆女=性観

著者は「酒・煙草・バクチ・女」(p171)という言い回しを上げています。女性でも、強い女性が「男」を付属品の意味で使用することがあります。
また、夫から見た妻の善し悪しを表現するような言葉が多いことを上げています。
言葉狩りをすれば言語使用が窮屈になります。また、言葉狩りは、狩られた言葉に代わる新たな言葉を生み出す結果になることが多いのです。重い差別用語は別として言葉に目くじらを立てるよりも、実際における女性の重要性の認識を向上させるように運動すべきでしょう。


☆言語のジェンダー表現研究とジェンダー秩序

著者が言う女性が「性的対象として貶められるような女性像から自分を引き離す組織的努力」(p176)は、女性が性的欲望の対象であることから性支配を導く立場では、望ましいことではないのでしょうか。
そして、このような努力によって「女性が得られる評判は、一人の男の妻となるにふさわしいという評判だけである。」(p176)と著者は言います。しかし、そのような努力によって政治家として相応しい道徳的な人だという評判や、会社経営者の信用の基礎となる評判や、地域の代表として相応しい人格者だという評判なども得ることができます。
フェミニズムは結婚が「一人の男の所有物」(p176)になることだと言います。しかし、実際は役割分担を行う対等なパートナーであることが多く、対等な恒常的パートナーであるべきものです。そして、実際にそのように結婚制度を構築していくことも可能なのです。


☆社会的世界の見方に関する男女間格差

著者は「女性は人間=男観に基づく言語に取り囲まれることによって、自分は別という感覚を発達させることになる。なぜなら、言語的諸規則は、女=性観によって女は人間の基準から逸脱しているということを女性に知らしめる」(p177)と言います。現代では女性の権利も力も強くなっています。そして、人類の半数は女性です。女性は自分が人類の基準から逸脱していると思うよりは、文法で男性が代表しているのは単なる規則だと考えるでしょう。
また、学校は疑問に思う女性に対して単なる規則であり、女性の重要性は微塵もゆらがないと教えるべきでしょう。
また、著者の言う人間=男観は、男性を代表者として扱うものです。それにより男性は自分たちだけが人間だという感覚よりも、代表者として女性のことも考えるべきだという感覚を発達させることもできます。男性だけのことを考えるよりも女性のことも考える傾向を生みます。役割分担を考えるとき、男性が女性に対して責任感を持つことは良いことです。


☆言語使用とジェンダー研究

「女性は断定を避ける 女性は主張を主観化する 女性は疑問文を多発する などの、女性の言葉使いの特徴」(p178)についての指摘は、「男よりも劣っているという性別意識に基づくものである」という立場に対して、著者は、人間=男観によっても説明できると言います。確かに、そういう要素も働いているでしょう。しかし、大部分は女性の慎ましさや優しさ、他者への配慮、謙虚さの現れでしょう。それに自分に対して注意を向けさせる戦術の面もあります。
「他者の主観性への配慮」(p178)は女性の本質に基礎づけられています。
著者は「人間=男観は、一般に人間に関する話題/問題において、女性に、そこに女である自分が含まれているのかどうか分からないという曖昧な状態を課す。」(p179)と指摘します。しかし、大部分が話の文脈から判断できるでしょう。そして、女性が含まれる場で、男性=男として人間一般について表現された場合、必ず、女性が含まれるというルールを確立すべきでしょう。そして、その女性を含まれることを否定しないのも男らしさです。

◆第5章 ジェンダー体制

★性別カテゴリーに対する私の基本的な考え

男性と女性は精神が平等ですが、物質は不平等であり、その本質を異にします。したがって、本質に基づく事実的差異に応じて男性と女性に異なる規則を与えること一般を不当とすることはできません。
ですから著者の言う「特定の状況や社会的場面において、性別カテゴリーと活動 行動を結びつける、成文化されたあるいは慣習上の規定」(p192)を意味するジェンダー体制一般を不当とすることはできません。特定の状況や社会的場面において個別具体的にその当不当が検討されなければなりません。


★ジェンダー体制として何を上げるべきか

☆コンネルのジェンダー体制

ここで著者は「ある日系の中年のアメリカ人女性は、アメリカと同じ服装や態度で日本の街頭や電車の車内を歩いていた時には、日本人の男性から、かなりいやがらせやからかいや痴漢行為を受けたという。ところが日本の中年女性をまねた服装をしたところ、ピタリとそれが止んだという。」(p196)事例をあげて、これが日本中年女性の防衛努力の現れを示すのではないかと言います。確かに、中年女性の慎ましい気品のある服装は尊敬の念を与えます。しかし、これはアメリカ的なもの一般に対する反応でもあるのではないでしょうか。アメリカは開放的で美的感覚や好みがかなり日本と違います。性的で挑発的なものを認めますが、それは日本の感覚では下品となってしまいます。


★家族

☆ジェンダー体制についての人々の認識

ここで著者は日本人に男性が優遇されているという認識があることを述べます。確かに、少なくなったとはいえ、不当な差別も存在することは確かです。しかし、フェミニズムがあらゆる伝統的な秩序を男性優遇として攻撃していることも大きいのではないでしょうか。異性の立場と役割を理解しようとするよりも、その立場と役割が自分と違うという理由だけで攻撃の対象とするフェミニズム。不当な差別をなくすことは必要ですが、フェミニズムの言うように伝統的秩序がすべて不当なものかどうか検討すること、男性と女性が相互に異性の立場と役割に理解を深めるとともに自分の立場と役割がどこから来ているのか自己認識を深めることが必要でしょう。


☆男女の実際の家事関連行動

「女性が働いていてようがいまいが家事は女というパターンが成立している」(p204)と著者は指摘します。確かに、このパターンは存在します。専業主婦なら、当然主として家事を担うでしょう。兼業主婦なら、仕事をしながらも家事に責任を持つでしょう。主婦という生き方を認めるかどうかの問題となります。私の立場はもちろん主婦は幸福の素、地の塩だということです。
しかし、キャリア・ウーマンの道を選んだ女性にはこのパターンは押しつけられるべきではないでしょう。キャリア・ウーマンの夫は主婦の夫よりも家事に協力すべきだし、家事をしていてもおかしいことではないという考えが普及されるべきでしょう。キャリア・ウーマンが結婚する時には家事に関する約束が明確に約束されるべきでしょう。それぞれの結婚形態において様々な役割分担の形があるはずです。


☆家事に関する意識

「男は仕事、女は家庭」意識が低下しているのはキャリア・ウーマンの生き方が認められてきている証拠でしょう。しかし、「女性は仕事を持つのは良いが、家事・育児はきちんとすべきである」(p208)という考えに賛成する男性が多いのは、女性が家事・育児に責任を持つべきだという正当な考えの現れでしょう。


☆妻を夫に帰属させる制度


著者は「社会慣習・通念などの形において結婚による女性の改姓という制度が存在している」(p209)ことを指摘します。現在の制度は夫婦の絆を強め、家族にまとまりを与える正当なものです。キャリア・ウーマンの不都合は別途考慮すべきでしょう。
「結婚することを嫁に行く 嫁をもらうといった言葉で表現することと密接に結びついている。ここから女性を譲渡しうる財やモノのように見なす意識を読みとることは容易である。」(p209)と指摘します。しかし、現在ではモノのような表現はしていますが、嫁という女性が人格を持った立派な人間であることはしっかり認識されていて、慣用的にそのような表現をしているにすぎないのではないでしょうか。また、「婿をもらう 婿に行く」とも表現されます。
著者は「嫁に行った娘の生活は嫁入り先の家が責任を負うものと考えられていた。このことが遺産相続に関わる意識において、既婚の娘への相続分を、既婚の息子や独身の娘と比較して明らかに少なくしている」(p209)と指摘します。既婚の娘は実家の相続分が少なくなる代わりに、婚家で面倒を見てもらえるとともに結婚の婚資を実家から得たと考えられます。
家そのものに価値を認める家制度の下では、家の継続の観点から女性が評価されるのは著者のいうとおりです。そのような封建的家制度が認められないのは言うまでもありません。しかし、そうではない男女の人間としての幸福の観点から形成された家制度は認められて良いものと考えます。家産・家業の継承を容易にし、生活を保障し伝統を維持すると共に、家のメンバーに守るべき価値とアイデンティティーを与える制度です。この家制度は法律的には男女平等な形式をとります。
著者は「娘の処女性に関わる規範や貞操という観念は、基本的に、この財やモノとしての女のあり方に関連する規範である。」(p211)と述べます。処女性を維持して結婚すれば、曇り無き幸福な蜜月に基づいて夫婦の絆が強まります。種族保存のための生殖機能も当然無傷でしょう。理由をはっきりと意識していたわけではありませんが、昔の人は処女性を守れば、結婚生活が成功するという知恵を有していてその実践を勧めたのだと考えられます。貞操は1対1の結びつきを原則とすることから生じる観念です。
著者は「現代社会においても、親は、子どもの性的行動について、娘と息子では明らかに異なる規範意識を持っている。」(p211)と指摘します。このような意識の違いが出てくるのは、処女性の教えの他に、生物的な生殖機能の違いから、性交において、女性は与え、男性は奪うという性格が出てくるからです。欲望の満足のほかに何の対価も得ないで大事な娘が与えることに抵抗感を覚えるからです。
著者は「夫婦の関係を、夫による妻の所有であるかのように位置づける考え方は、夫婦間には強姦を認めない法解釈においても見出すことができる。」(p212)と指摘します。確かに、証拠上、裁判官に夫婦間の強姦を認定させるのは難しいでしょう。しかし、私の知る限り夫婦間にも強姦の成立を認めるのが正統的な解釈です。
著者は「男性は婚姻上の地位の変動があっても世間に公表する必要はない」(p212)と言いますが、結婚披露宴を開いて結婚したことを世間に周囲を通じて公表します。また、職場でもそれなりの挨拶をすることが多いでしょう。
著者は「男性の社会的地位は婚姻上の地位とは関わりが少ない」(p212)と指摘しますが、既婚の男性の方が独身者よりも信用が高くなるという現象があります。夫婦者の方が安心して雇用されます。夫婦者には家族を養う責任があるからです。


★職場

☆コース別人事制度

「総合職は、通常社内の中枢的・基幹的職種 昇進が見込めるものの転居を伴う転勤もあるコースなどと規定されている。他方一般職は、定型的補助的職種 転居を伴う転勤がないコースなどと規定されている。」(p216)と言います。総合職は一般職よりもかなり強い職務への専心を要求されます。命じられれば原則としてどのような仕事も引き受けなければならない存在です。命じられれば海外を含むどこへでも転勤しなけければなりません。高度な判断が必要で責任が多い地位を任されます。その代わりに、昇進・昇給が一般職に比べて有利になります。一般職は総合職に比べて低い職務への専心しか要求されません。高度な判断を必要としない定型的業務を行います。転勤も制限されます。その代わりに、昇進・昇給が不利になります。総合職と一般職は官庁でいうキャリアとノンキャリアに相当するでしょう。メリットとデメリットを合理的に組み合わせた合理的制度です。総合職や一般職の内部で、男女に昇進・昇給の差別がないことを条件として正当な制度です。
著者は「実際には一般職と総合職が同じ仕事をしていたり、逆に一般職の人が総合職の人を指導していたりすることなどの事態が当然にも生じてくるのである。」(p217)と指摘します。確かに、当然生じてきます。総合職の人も業務の実際を知り、業務に習熟するには、ある業務を長期間任されて習熟している一般職の人の指導を受けるのが良いでしょう。たま、一時の人事配置上の都合や、職務の性質上総合職の仕事か一般職の仕事か割り切りがたいために、総合職の人が一般職の人の仕事をすると見られることもあるでしょう。総合職の人が総合職失格だとして一般職の仕事を割り当てられることもあるでしょう。


☆パート労働者

パート労働には主婦が重い責任を課せられずに、すなわち家事・育児に大きな支障を来さずに社会参加でき、家計も補助できるというメリットが存在します。気楽に仕事ができる代わりにある程度賃金が安く、補助的な仕事が多いのは仕方がないことです。しかし、労働調節の名目で簡単に首を切れるのは問題だと考えます。パート労働者は通常の勤務日を自己都合で休んでも首を切ることができない日を与えられるべきです。通常の勤務日の三分の一ほどが適当でしょうか。また、パート労働者を雇用する企業にも使用者としてパート労働者に対する年金の積み立てを義務づけるべきです。


☆同じ職務・職位の男女における役割分担

著者は地方公務員の職場で「車の運転が必要となる場合や力仕事は、男性に回されがちである。また女性には、職場のお茶くみや特に来客の場合のお茶くみなどが、仕事として回されがちになる。」(p222)と指摘します。男性は下支えの仕事である汚い・きつい・危険な仕事を回され、女性はそうではない仕事を回される役割分担だとも言えます。そして、女性には比較的肉体的疲労が少ない仕事を回されることが多いので、女性の細やかな心遣いによる接客を期待されてお茶くみを任されるのでしょう。また、接客には顔が知られるというメリットがあります。


☆自営業

うまく行っている自営業では夫婦それぞれの特性に応じた役割分担がなされていると言えます。著者は「主に自分の働きによって店が大きくなったけれど、離婚してしまえば自分の店における位置は消えてしまう。その時どれだけのものが自分に残るのかと不安をもらす自営業者の妻もいる。」(p223)と指摘します。事実、主婦の家事・育児の働きは大きいものであり、それは離婚する際の金銭のやりとりに反映されるべきだし、店そのものの活動においても大きな役割を果たしたのなら、それも金銭に反映されるべきでしょう。


☆異性愛のパターン

著者は「かつて職場の女性を職場の花と表現する言い方があった」(p226)と指摘します。女性は女性美により居るだけで雰囲気がなごみ華やかになることが多いという現象を表現したものです。性的魅力を必要とする仕事の職場以外で、職場の花とすることだけを目的として雇うことは問題ですが、そのようなことを考えずに雇った女性が自然と職場の花になることは何らおかしくないでしょう。
ホックシールドによれば「女性客室乗務員が一日に乗客から被るハラスメントの回数は、男性客室乗務員が一日に受けるそれよりも多い」(p227)そうです。1日のハラスメントの回数が女性に多いのは、一般的に言って女性が肉体的力において弱者だからです。弱者が狙われるのです。これは弱者を守り保護する男らしさが欠けているということです。また、男性の方が攻撃的であり、男性の性愛の相手がほとんどの場合、異性である女性だからです。
そして「女性客室乗務員に対しては男性客室乗務員に対しては男性客室乗務員にはけっしてしないような、結婚しないのとか子どもができたらどうするのなどの個人のプライバシーに触れるような質問をしてよいと考える乗客(当然男性客が多い)も出てくるのだ。」(p227)という現象は、男性が女性客室乗務員に魅力を感じ、交際のきっかけをつかもうとする努力であることも多いのです。そして、女性客室乗務員も出会いを期待する面があります。女性客室乗務員は嫌な男性に対しては軽くあしらう賢明さが必要です。セクシャル・ハラスメントと言えるようなものに対しては、それが昂進して行かないよな歯止めとして、現実のセクシャル・ハラスメントに対する対応として、男性客室乗務員の役割があります。
著者は女性を公然と性的対象とする職場が存在し、「この結果、女性労働者の性暴力やセクシャル・ハラスメントという訴えは無化されがちになる。」(p228)と指摘します。このような職場でも暴力が許されてはなりません。しかし、こうした職場の商売の性質上、通常はセクシャル・ハラスメントとして許されない行為でもある程度許容されるのはしかたがないでしょう。そのような行為を許すことで商売がなりたっているのですから。そして、通常の職場ではセクシャル・ハラスメントが許されないと言う社会規範が確立されるべきだし、確立されつつあります。性的対象としての魅力が要求される職場は、女性がキャリア・ウーマンとして成功する通常の仕事の能力が不足していても、それにより大きな所得を得ることができる場でもあります。これも女性の自己実現の一つです。
著者は「日本の職場では、女性社員のみに制服着用を義務づけている職場が多いが、使用者の挙げる理由には、女子は服装が華美になりがちだからなどの理由が挙げられていることが多い」(p228)と指摘します。一般的に言って制服には、着用者の間に一体感を高め、制服を与えるものに対する帰属感を高め、着用者間の葛藤を抑制し、能率を高める効果があります。ブルーカラーの職場では男女共に大部分が制服着用です。ホワイトカラーの職場では、スーツが制服として機能しています。スーツはその形において制限があるとともに、色にも黙示の制限があります。これに対し、女性にはまだ、そのようなルールは成立していません。また、女性は美に強い関心を持つので、服装で美を競う傾向があります。仕事が第一のそのような無用な競争を排する必要があります。だから、女性にだけ制服が制定されるのです。
著者は女性を花嫁候補として保護する企業慣行について「日本型雇用慣行は、まさにそうした女性観・結婚観を持つ男性使用者によって形成されていった」(p229)と指摘します。確かに、日本型雇用慣行は主婦の存在を前提にしています。何度も述べるように主婦は否定すべきものではありません。そして、日本型雇用慣行は女性を保護して品行を守らせます。女性は品行が良い方が良いのでしょうか、悪い方がよいのでしょうか。事実上、悪い方が良いとしているのがフェミニズムです。そして、これは女性を性的欲望の対象(商品)とする道です。


★学校


著者は「学校は実際には社会成員への職業的地位の配分を正当化する役割を負わされているのに、私たちの社会が平等な社会であるという認識を正当化する役割をも担わされているというこの矛盾が、学校という場を緊張に満ちたものにする。この矛盾を覆い隠すための唯一の方法は、学校社会成員に平等に教育し課題を与えその成績を本人に示すことによって、彼らが自ら特定の職業的地位を選択・受容していくよう促すことである。」(p229)と言います。しかし、私たちの社会は法的に平等であり、社会慣習的には役割分担がなされている男女対等な社会であり、あるべきです。矛盾が生じるのは、本来自由に形成されるべきである社会慣習までも男女平等イデオロギーに基づいて歪曲しようとするフェミニズムの立場に立つ場合です。また、学校が努力と勤勉を勧めるのは正当なことです。


☆進学

著者は学歴の点において、女性の専攻(人の世話をすることに関わるものが多いこと)において、大学院進学に関して、性差が生じると指摘します。しかし、これらのことは男女の心性とライフスタイルの違いに応じて生じた現象です。すべてが男性と女性半々でなければならないという立場に立って問題となるものです。その立場に立った場合、機会均等と男女の心性に反し、個別具体的に不当な結果が多数生じてくるのです。
著者は「女性が四年生大学に進学しないのは、成績が悪いためであり、仕事の上で男性と同等になれないのは、学歴において相違があるためや、女性が仕事において必要な専門知識を持っていないからであるとか、家庭で女性が家事や育児を担うのは、女性の方が職業上の能力を持っていないからである」(p235)などの考え方を批判します。良い成績や専門知識や学歴を持たない女性も事実として存在しますが、女性一般をこのように考えることは大変不当なことです。特に女性が主婦として家事・育児の責任主体となるのは、職業上の能力を持っていないからではなく、その優しい心性故に家事・育児をしてくれていると考えるべきです。
著者は「ある男子学生は、職場における性差別を、大学進学時において女性が男性に比較して努力を怠っていたことの当然の帰結であると解釈した」(p235)と指摘します。男女対等に基づく役割分担から正当化しうる性的カテゴリーに基づく区別ではない、性差別は当然否定されるべきです。女子大や女子短大は総合大学とは違ったそれぞれ独自の意義を有し、その意義に相応しい就職口が用意されるべきだと考えます。


☆大学進学率の性差

著者は「成績が非常に良い場合は同等に進学するものの、一般的に同じ成績であれば男性は女性よりも多く四年制大学に進学している」(p236)と指摘します。これは成績が良いなら、成績の良い男子にも伍して行けますが、成績が悪いなら主婦の道も考えた方が賢明だと言うことから起こる現象でしょう。「親は男の子には大学までを望むが、女の子には大学までは望まず短大でよいと考える人が多く」(p237)いるのも、親も成績が良いのなら、四大までと考えますが、それほどでもないなら無理をして四大まで行くことはなく、主婦の道も考えた方が良いということでしょう。
著者はその背後には「女性は家庭に入るものという性別分業の考え方があることは確実である。」と指摘します。確かに、主婦の道があるから生じています。しかし、家庭に入るべきという強制は現在では働いていません。


☆異性愛のパターンが進学率に与える影響

著者は「四年制大学で男子学生と一緒になって生活することがもたらすかもしれないリスクへの親の不安、特に若い女性が都会で一人暮らしすることへの親の不安が、女子短大を選択させる一因になっている。女子短大には、親元から通えるという地域密着性や、寮の整備などによって若い女性が一人暮らしをしても安全であることを売りとするところがかなりある。」(p238)と指摘します。これは職場のところで考察した守られるべき存在としての女性に関連します。そして、これらの売りは四年制大学でも売りになりえます。そして、女子短大への進学率の高さは主婦の道への支持も示しています。


☆専攻分野の性差

高校生得意科目の男女別の傾向として、男子学生は数学、理科、地歴・公民、体育を得意とし、女子学生は国語、英語、芸術、家庭を得意とする傾向が見られます。男子学生の得意科目は徹底した抽象的思考が必要で、感性や美よりも知性、体力が必要な科目です。女子学生が得意なものは体力や知性よりも感性や美の必要性が高い科目です。それぞれの心性に一致していると考えられます。そして、得意科目から見て、社会において男性が有利となる分野が比較的多い傾向が伺えます。社会を動かしているのは、科学と論理的思考であり、徹底した仕事をするには体力も必要だからです。
著者は「共学校に学ぶ女性は、女子校の女性よりも、数学が不得意という意識をより多く持つという調査結果もある。」(p240)と指摘しますが、これは周囲に数学を得意とする男子学生が多くいるので、それに比べて不得意だという意識を持ちやすいのだと考えられます。
著者は「女子大選択は、単に専攻分野だけではなく、風紀や安全性に関する配慮からもある程度なされるのである。」(p240)と言います。攻撃性の強い男子のいる大学よりも女子大の風紀が良くなるのは自然な傾向です。身を守る配慮をするのも自然な傾向です。そのような傾向に合致することもあって女子大は支持されています。


☆課外活動

課外活動の内容は「男性を主とし女性を副とする性別分業パターンを含んでいる。」(p242)と著者は指摘します。これは女性が男性を立てるという習慣に基づくものです。表に立った男性は女性を守る必要があります。男性の方が男性の力を抑えやすいと言えます。また、女性が攻撃の矢面に立つことを防ぎ、女性の美と感性を守ります。
女性が男を立てる習慣は否定すべきものではありませんが、女子校では男子学生を表に立てる必要はなく、また男子学生に攻撃されることもなく女子学生が経験を積めます。ここにも女子校の存在意義があります。


☆教科内容

著者は教科内容に「女子のみに母親になる自覚を持てと強調する一方で男子の父親になる自覚については言及しない」(p243)ものがかなりあると指摘します。確かに、これは問題で是正されるべきです。しかし、それは男性に母性を担わせようとするものであってはならず、父性としての自覚を求めるものでなければなりません。また、「女性の婚姻外性行動について自粛を促すような内容のものがまだかなりある。」(p243)と指摘します。婚姻前に、性行動を自粛するのは、幸福な結婚をするための知恵です。婚姻後に婚姻外の性行動を自粛するのは、一夫一婦制の立場からは当然です。教えられるべき知恵です。

◆第6章 <諸制度><儀式><メディア><社会的活動>

★諸制度

☆商業的サービス

著者は「多くの物販商業施設は、朝一○時〜夜七時といった時間帯しか開店していない。平日この時間帯に買い物することは、仕事を持つ男女にはかなり困難である。すなわちこのような物販施設が多いということは、家族の中で誰かが就業していないということを前提としているのである。」(p247)と指摘します。確かに、主婦の買い物には都合が良いでしょう。しかし、物販施設に働く人にとっても都合が良い時間です。平日が休みの人もいるし、勤務中の休み時間もあります。営業や出張の途中で立ち寄る人もいます。会社そのものの用で物販商業施設を訪れる人もいます。
著者は「よんどころない事情以外で母親が子どもを預けることを罪悪視する日本社会の育児観は、小さい子どもを持つ母親に、重い石をくくりつけられたように行動を阻害される感覚を、味合わせるのである。」(p248)と指摘します。息抜きや、自分へのご褒美、自分の正当な休暇として子どもを預けることは理解が進んだ現代日本ではそれほど罪悪視されていないし、認められるべきことでしょう。
育児を責任主体として主婦が担うべきだと考えますが、他方、美容院や音楽会、美術館などを利用可能にする一時的な幼児の預かり施設が整備されるべきだと考えます。
著者は「実際、子どもを持つ母親の、映画鑑賞や美術鑑賞行動など文化的施設の利用は、非常に少なくなってしまう。」(p248)として、「明確なジェンダー間の行動格差をもたらす」と指摘します。しかし、「格差」といいますが、男性も仕事に時間をとられあまり鑑賞しなくなりますし、育児を終えた主婦が男性以上に鑑賞を楽しんでいるのは事実です。
著者は「夜遅くまで酒と食事を男性客にふるまうことを主力商品とする店では、女性従業員の性的魅力まで利用して男性客を集客しようとする。こうした商業施設が大量に存在する背景には、男性は家事・育児の義務がないので家にいつ帰ってもよい 家庭の主婦である女が夜遅くまで外出しているべきではない 女性の夜歩きは危険なのであまり遅くになるまで外出しているべきではない 夜遅くまで働いている女は性的対象として扱われても当然である」(p248〜249)などの社会通念が作用していると指摘します。夜遅くまでの店に出入りする男性には、早く家に帰りたいが、つきあいで仕方なくという男性も多くいます。女性は家事を行うなら事実、夜遅くまで外出するのは困難です。一夫一婦制のもとでは互いに貞操義務がありますので、危険を伴う女性の夜歩きは避けられることになります。「夜遅くまで働いている女は性的対象として扱われても当然である」という考えを私は初めて知りました。このような考えは一部の偏見であり、とうてい社会通念とは言えません。
著者は「牛丼屋や駅ソバ屋の利用客の男女比は、圧倒的に男性に偏っている」(p249)ことを指摘します。これは美しい図ではないから、女性が避けるのでしょう。
「年配の女性たちの中には、一人で外食することに対して非常に大きな抵抗感を感じる人もいる。その背景には、女性が外出すること一般に対する性別分業に基づく抵抗感があると思われる。」(p249)と指摘します。しかし、男性でも女性でも一人で店にはいるのは楽しくないし、気が引けるし、それが知らない店なら一層そうです。それに、年配の女性の慎みが加わって抵抗感が増すのでしょう。
著者は「主として男性客を、あるいは男性客のみを想定している商業施設・店舗」(p249)として「公営ギャンブル関連施設、バッティングセンターやゴルフ場などの一部のスポーツ関連施設」も挙げます。しかし、公営ギャンブル施設は女性の利用を積極的に歓迎しています。背後には女性客が増えれば女性に引かれて男性客も増えるという現象があります。それはスポーツ関連施設も同じです。また、女性客の利用も珍しいことでは決してありません。
「他方、女性客のみを客層として想定している商店もある。それは、基本的に、化粧品店・ブティック・美容院・エステティックサロンなど、外見に関わる商業施設である。」(p249)。女性が美に関わる商業施設に関心を持つのは心性からして自然です。これらの商業施設に見られる男女の違いは、男女の心性の違いとそれから導かれる好みの違いによるものです。
著者は「買い物行動に関連しては、日用品や食料品の買い物を女性に、耐久消費財や車や住宅などの高額商品の購入を男性に割り当てるジェンダーも、未だ健在である。」(p249〜250)と指摘します。しかし、日用品や食料品の買い物は、家事・育児に責任を持つことから主婦に自由裁量で買うことが授権されており、これに対して耐久消費財や車や住宅などの高額商品は高額であるが故に家計に重大な影響を及ぼすので、夫の同意も必要とされるのだと考えられます。
著者は「男女二人で来店した場合、店員の説明は主要に男性客に向けられる場合が多い。」(p250)と指摘します。商品にもよりますが、まず男を立てて、男性客のブライドを満たすと共に、女性客に対しては男を立てる女性として扱って、スムーズな関係を形成し、その上で、男性客は決定に際して、連れの女性の意見を尊重し同意を求めて得られないなら、店員は女性客に向かって説得を開始するということでしょう。
著者は「女一人ではばかにされてしまうのではないかと不安がる女性もいる。」(p250)と指摘します。社会通念として女一人の客を馬鹿にするようでは商売人失格と言えます。
著者は日本の銀行が「女性は現在働いて収入があったとしてもその稼働力をそのまま評価してもらえないことが多い」(p251)「女性事業者への貸ししぶりがある」(p251)と指摘します。現在は不況で男性事業者に対しても銀行は厳しく当たっていますが、女性にだけそのような事実が存在するなら是正されるべきでしょう。


★病院

著者は「命に関わるような病気の場合、日本の多くの病院では、患者本人にそのことを告げる前に、家族に病状を告げる。告げる家族としては、患者の夫や父親や長男など、家意識に基づく序列関係で最も近い男性が、好んで選択される傾向がある。女性が最も近しい家族の場合には家族の近しい男性を伴ってくるように指示されることが多い。患者の治療に関する意思決定の責任を、男性にとらせたいという意識があるものと推測される。」(p251〜252)と指摘します。確かに、男性は面目を潰されることを嫌うので、意思決定から外されると騒ぐ傾向があります。しかし、命に関わるような病気の告知の場合、女性が取り乱すことが経験的事実として多いので、医師が女性を避けるという面もあると考えます。女性が最も近しい家族の場合は、女性が取り乱すことがないように男性を伴わせるのだと考えられます。
著者は「実際には入院患者の身のまわりの世話をほとんど家族に依存してきたのであり、家族とは暗黙に女のことであった。」(p252)と指摘します。身の回りの世話が女性に任されてきたのは、主婦が存在すること、一般的に言って女性が優しく他人に配慮する存在であることからです。
著者は「病院自身が男性の付き添いを病棟管理上問題であるとして明確に拒否することもある。」(p252)と指摘します。確かに、問題です。男性は女性よりも性欲に悩むことが多く、女性は淫乱な女性を除くほとんどの女性が性のことで問題を起こしません。
著者は「付き添いの女性のためには、宿泊施設も食事施設も入浴施設も整備されておらず、女性は狭い病室の中で、患者のベッドの横の床や簡易ベッドで寝るよう強いられる。こんな生活」(p252)を指摘します。これは改善されるべきものです。しかし、これには次のような背景があります。病院は第一に患者のものであり、患者の治療が最優先です。そして、病院経営上、なかなか付き添いの人にまで資金が回りません。「この状況は、病院付添婦の廃止によって変化しているが、廃止とともに増員されたはずの看護婦の人数では、患者の世話を充分に行うことはとうてい困難であり、かえって患者や家族に負担を強いている。」(p252)と指摘します。付き添いの人の環境が改善されて法定の基準を満たした病院に限って付き添い婦を復活させてよいのではないでしょうか。また、世話をするという活動に対する理解の運動が進められるべきでしょう。
著者は男性が泌尿器科、女性が産婦人科に分かれていることを指摘します。女性の心と体に適合した女性専用外来が推進されているように問題はないでしょう。「妊娠の喜びにうきうきしている女性と並んで、不妊や習慣性流産で通院している女性が診察を受けなければならない状況があるのである。」(p253)と指摘します。次のような制度的改善を提案します。不妊治療を行う病院では産婦人科内に不妊科を設けます。外部に対して不妊科という表示はなされません。しかし、病院内では産婦人科から離れたエリアに不妊科を置き、産婦人科の患者とは異なった出入り口を使用できるものとします。不妊科も当然、夫婦で受診できます。


☆社会保障・公共サービス

著者は今の年金制度が「女性が離婚した場合に女性に非常におおきな不利益をもたらす制度」(p253)として指摘します。主婦として働いた女性に対しては、結婚期間に得られた夫婦双方の年金の基盤を合計して二分すべきだと考えます。主婦は家事・育児という立派な労働に対して市場によって評価された報酬を受けられずに、夫の報酬に依存する弱者であることや、その倫理性からして保護されるべきものだからです。
著者は「警察や司法も、一つのジェンダー体制として機能してきた」(p254)と指摘します。警察は実力の行使を行います。司法は、特に検察は他者に厳しく接する必要があります。男性が多くなるのは自然です。性犯罪やドメスティック・バイオレンス問題などでは理解のある女性を活用すべきでしょう。


☆公的家父長制

著者は「機能分化し専門的サービスを担うようになった組織や機関は、基本的に、その業務を職業として行う人々によって組織された。この過程において、職住分離が生まれ、女性は私的領域である家族において再生産・無償労働を行うよう、配置されたのだ。」(p255)と指摘します。しかし、職住分離以前にも役割分担は行われており、職住分離により男性の職場が外になったに過ぎません。
役割分担に基づいて、女性の数が多くなる職場もあります。看護の世界、保育の世界、秘書の世界、客室乗務員の世界などでは、女性が主流です。主婦が家庭という職場を持つので、その他の職場で、男性が多くなるのはそのとおりです。
しかし、それぞれの職場は合理的な役割分担に基づくものであり、支配などは存在しません。不当な差別も存在することを認めますが、ほとんどが男女の性差に基づいて自然に現れた傾向に過ぎないのです。
「現代フェミニズムが、様々な専門領域において、言説分析や言説批判を行いながら試みているのは、こうした各専門領域を基礎づけている専門知識そのもののジェンダー・バイアスを洗い出すことを通じて、公的家父長制を洗い出そうとしていることとして位置づけうる。」(p257)と指摘します。著者の試みは、生物文化的ジェンダーを無視して本質隠蔽すると共に、個々の現象についてはその合理的根拠を無視し、できるかぎり性支配、性差別として描き出そうとするものです。フェミニズムのそのようなイデオロギー的傾向を「逆ジェンダー・バイアス」と呼びたいと思います。


★儀式

☆結婚式・葬式

著者は「儀礼や祭礼や行事において、お茶や食事や酒のふるまい、部屋の飾り付け、客人の接待などの活動は、女性に主として割り振られている。」(p258)と指摘します。これに対して、男性には運搬や設営などの力仕事や大工仕事が主として割り振られています。
著者は「結婚式の花嫁・仲人の妻・花嫁・花婿の母など、当事者の女性にも、話す機会は与えられない。女はただ衣装をつけてその場の意味を表示するだけである。」(p259〜260)と指摘します。確かに、伝統的な結婚式ではそのような傾向があったでしょう。しかし、伝統的結婚式でも花嫁は重要な位置を与えられ、儀式の一方の主役を務め、宴では話題の中心だったでしょう。これが、現代式ともなると、花嫁が前面に出てきて、花婿が花嫁の引き立て役ではないかと思われるようなこともあります。女性にも話したければ、話す機会は与えられるでしょう。
著者は「女性は裏方の労働を多く担うのに、儀式そのものでは見物にまわってしまう。」(p260)と指摘します。しかし、表に立って責任を担うより見物は気楽で楽しいものでもあります。


☆法事・祭祀・墓

「たとえ実の両親をまつる行事においても、娘では執り行うことができ」(p260)ないという沖縄のトートーメー問題は是正されるべきです。
家の継承が父系主義であることは、家の維持のためにはしかたがないことです。理想型を考えると、母系主義だとすれば、同じ母の子は平等ということになり、女性が複数の夫を持つことが肯定される傾向になります。この状態で、乱婚を避けるためには男性が一人の女性だけを相手とするという規範が樹立されなければなりません。しかし、この規範は欲望の強い男性に困難を与えるものです。これに対し、父系主義ならば、女性が一人の男性だけを相手にすることを規範が必要ですが、相対的に欲望の弱い女性には容易です。この結果、家が安定して維持されます。そして、男性は自らの家を守らねばならない反面、女性は自分の嫁ぐ家を選択できるという面もあります。
仏教は男女対等の立場からも肯定できない性差別は廃止しして行くのが賢明でしょう。


☆女性を男性の人格の下に覆い隠す制度

主婦が居て共同して家庭を運営している世帯は、町内会の名簿、町内会の祭りの寄付者名、葬式の記帳名、PTAの名簿、電話帳などには、夫婦双方の名前が記載されるべきだと考えます。


☆年賀状・挨拶状

主婦が居て共同して家庭を運営している世帯は夫婦共同の名前を使い夫婦共同の宛名に出すことが推進されて良いでしょう。香典の額における男女差があるなら、撤廃されるべきでしょう。


☆人前では夫を立てる

人前では夫を立てることにより、表に立った夫が他の男性と渡り合い、妻が守られます。妻が助けることで夫の勝利の確率も上がります。夫は自らの誇りを守る機会を与えられると共に、女性は自らの道徳性に自信を持てます。
著者は「実際の活動をほとんど女性がしたとしても、その活動は夫たちの名前のもとに帰属される。」(p264)と指摘します。これに対し、我々は男女共同叙勲表彰制度を提案しています。



★メディア

☆メディアとは何か

全世界的に女性の識字率が向上されるべきです。そして、男女対等の考え方が行き渡れば、過去の文書の偏りも影響力を失い歴史的なものに過ぎなくなるでしょう。


☆学問のジェンダー・バイアス

著者は「それが作り上げられてきた時代においては、女性たちは基本的に、学問世界に参加することはできなかった。したがってそれぞれの学問の問題関心そのものにおいてすでに、ジェンダー・バイアスが存在するのである。」(p268)と指摘します。男性が作り上げたとしても男性も女性と同じヒトという類に属します。人間として関心を共有しうるものが大部分だと考えます。男性の視点と言うより人間の視点に基づいて学問を形成したというのが適切です。但し、男性は徹底的な真理の追究を行って遠くへ到達しようとするのに対して、女性は身近なものへの眼差しが特徴的です。男性が学問を行うときに女性の視点が含まれにくいのは事実です。女性が独自の視点を提供することは歓迎すべきことです。女性の関心に沿った学問分野や学会を作り、女性の視点で展開して行くべきでしょう。しかし、あくまでも科学的に為されるべきであり、フェミニズムのイデオロギーは排斥されるべきです。


☆メディア発信とメディア接触のジェンダー体制

著者は「通勤電車の中で新聞を広げている人の性比は、圧倒的に男性に偏っている。まず男性は女性に比較して、通勤の途中で新聞を買うという行為をより多く習慣化している。駅の売店にある新聞の中には、家庭には配達されないポルノ的な読み物を含むスポーツ紙(いわゆる夕刊紙)がかなりの比率を占めている。」(p269〜270)「テレビドラマなどの場面を見る限りにおいては、食卓で新聞を読むのも圧倒的に男性に偏っている。」(p270)と指摘します。ここで指摘されているのは単なる社会現象か、個人的習慣に過ぎません。男性が新聞と結びつくのは、社会公共の事件に関心が深く能力開発に熱心な男性が比較的に多いからです。
著者は新聞を広げる行為に関連して「男らしさとは時空間をできるだけ多く占有することを意味」(p270)すると解釈します。私はそのような男らしさを初めて知りました。社会通念としてもそのような男らしさは認められていないと考えます。新聞を広げるのは単に見やすいからに過ぎません。そして、周囲への気遣いが少し足りない男性もいる結果に過ぎません。
著者は「女性がメディアの世界に入り込んでしまうことは、周囲の家族に対する世話を怠ることに通じる」(p270)という行動規範を指摘しています。このような行動規範も疑問です。あるとしたら、男性も含めて人間がメディアの世界に没頭することは周囲への関心を失わせるというような一般的なものでしょう。確かに、主婦が家事を行わずにテレビを見ていたら家族は不満を持つでしょうが、家事を立派にこなす主婦がテレビドラマを夢中で見ても誰も非難する人はいません。


☆雑誌・新聞

心性に応じて男性女性の一般的な好みの違いが存在し、それに基づいて男性誌、女性誌が分かれます。男性誌が一般紙とされるのは、男性に公的分野への関心が高く、公的=一般的とされるからです。また、公的分野には女性も関心を持てるし、持つべきだからです。
著者は「男性が女性向け漫画雑誌を読むことには、女性が男性向け漫画雑誌を読むことに比較して、より大きな抵抗感があると思われる。」(p271)と指摘します。男らしさを維持するには規範としての性質上、比較的に努力を必要とします。女性的なものに触れることで、自らの男らしさの基盤が掘り崩れるのではないかと抵抗感を感じるのだと思います。


☆受け手のメディア選択とジェンダーの構築

著者は「一般向けメディアが暗黙に男性向けであることによるメディア一般への関心の低下や、メディアに対する発言権についての予めの自己限定をも、同時に生み出している可能性がある。」(p274)と指摘します。しかし、テレビ・ラジオなどのマスメディアは十分女性を意識して作られていますし、自由主義が普及している現在、言いたいこと言うべきことがあるのに女性だからと言う理由で自己限定する女性はそれほど多くはないのでしょうか。
著者は「男性の問題関心に基づく世界像を客観的世界像として正当化する言説が大量に流布している」(p274)と指摘しています。しかし、男性の問題関心に基づく世界像をそのように規定するなら、女性の問題関心に基づく世界像も客観的世界像と言えなくなるでしょう。したがって、テレビのニュースなどは男性女性双方の問題関心に注意を払うべきこととなります。


★社会的活動

☆伝統的な中間集団における女性の周辺化

著者は「このほとんどすべての中間集団における女性の周辺化は、全体としてはグループとしての女性の意見が、法や制度にほとんど反映されないという巨大な不公平さを作り出すことになった。」(p276)と述べます。中間集団は独裁的集団ではなく、民主的集団であり、優れた女性の意見が法や制度に反映されないわけではありません。グループとしての女性の意見とはフェミニズムの運動を念頭に置いているのでしょう。しかし、ジェンダー・バイアスが存在しうることは認めます。したがって、女性の関心・問題意識に基づく組織や集団を作ることは良いことです。ただし、それがこの論文で否定するフェミニズムというイデオロギーの指導下に入ることは望ましくありません。フェミニズムは女性の関心・問題意識の基礎にある女性性を消滅させようという運動だからです。また、伝統的な中間集団にも独自の意義と役割があり、否定されるべきものではありません。
著者は「政党活動において女性党員は、男性党員と比較して役員に選出されにくいことを意味している。」(p277)と指摘します。男性は公的分野への関心が強く、熱心に政党活動を行うので、役員に選ばれやすいと言えます。また、女性は多くが主婦として家事・育児に責任を持つので、重い責任を持つ政党の役員には選びにくいと言えます。その主婦が党員にも多いので、役員が少なくなると言えます。しかし、政党は女性部により、女性の関心・問題意識を意識的に吸い上げ、女性部の役員に党全体の役員の一部を制度的に割り当てることが認められてよいでしょう。
著者は「一部の政党においては、タレント業や女優業によって名声を得た女性たちを候補者とする場合が非常に多い。そこには、女性の性的魅力を含む人気によって票を獲得しようとする意図が見てとれる。また女性の候補者のもう一つの形は、父親や夫の死後選挙区を受け継ぐ形で妻や娘が候補者となる場合である。また女性の選挙公報や選挙カーでの選挙活動においては、好んで妻・母としての活動歴が強調される場合が多い。」(p279)と指摘します。これらは女性候補者を増やすと共に、女性候補者に武器を与えています。
著者は「男性の議員候補者の妻たちは、選挙活動において、夫を支える活動を行うことが期待されている。」(p279)と指摘します。女性候補者の夫たちも妻の選挙活動を支えることが期待されているでしょう。


☆家族とのかかわり

育児期を脱した主婦は余裕を持ち、官製の運動体(地域婦人会・更生保護婦人会・生活改善運動など)に参加して自己実現を図ってきました。確かに、この運動はジェンダー秩序を強化してきた面があります。しかし、ジェンダー秩序・体制にも不当なものもありますが、合理的根拠を持つ正当なものが多いのです。そして、男女対等の立場から見て、女性の役割として肯定される官製活動は積極的に推進されるべきです。


☆女性の社会的活動の新しい流れとNPO活動

著者は「女性の自立を実現しつつあるかに見える仕事を持つ女性たちの方では、家庭生活と職業両立に精一杯で、社会的活動に参加する余裕すらなく、女性の自立を主張できる時間的余裕を持つ女性たちは自立できない…。」(p283)と述べます。仕事を持つ女性たちが自立しているのに不十分だというのは、フェミニズムに参加しないということでしょう。そして、女性の自立自体はとりあえずの目的であり、フェミニズムの目指すべき目標ではないということです。そして、余裕のある女性たちが自立できないと言っているのは単にフェミニズムに組織されないことを言うのでしょう。余裕のある女性たちの活動をフェミニズムがイデオロギーに基づいて批判することで、彼女たちの自己実現が妨げられるとともに、彼女たちが支える市民運動を抑圧しています。彼女たちの地道な活動によって支えられるべき社会を暗くしているのです。女性運動は男女対等の立場に立って、合理的区別を支持するとともに、不合理な差別に目を光らせるべきです。そして、主婦の自己実現の運動を妨げるようなことがあってはなりません。


★ジェンダー体制の記述とは何か

ここで、著者は社会構築主義との関わりで自分の立場を説明して弁護しています。前述の通り、社会構築主義とは都合が悪いので本質を無視しようという非科学的イデオロギー的な間違った立場です。
私はここで、社会科学に関する自分の立場を述べておきます。人間は構造化された構造です。社会には客観的構造が存在します。客観的構造を主体的関心にしたがい、科学的方法を用いて分析することで、分析結果が得られます。その分析結果は「ある程度」客観的なものであり、他の客観的な分析結果と整合性を照合することで、十分な客観性が得られるとともにその意味が分かります。また、人間が持つ認識構造は意図的に客観的合理的な考え方を内面化することで、客観的合理的になり、それにより「ある程度」をより客観的合理的にできます。こうした照合を積み重ねることにより、客観的合理的な理論体系が可能です。そしてその客観的合理的理論体系は分析の道具となるとともに、照合の道具となります。


■3 ジェンダーの再生産と変動

第7章 ジェンダー知の産出と流通

★日常知としての男らしさ 女らしさ

著者は「女らしさ 男らしさなどの知識は、社会生活を送る上で十分有効かつ妥当な知識ということになる。だからこそ性別カテゴリーや女らしさや男らしさなどの社会通念は、強固に維持され続けているのである。」(p308)と指摘します。一般的に言って知識が力ある場合は真理に基づいています。女らしさ 男らしさなどの知識も大部分が女性性・男性性という本質に基礎を持つ正しい知識だからこそ、力を持ち有効であるという面があります。


☆日常知としてのジェンダー知

著者は「男と女は全く異なる 男女はそもそも生まれながらにして向き・不向きを持っている」(p311)という発言は性別分業を肯定するので、抑制される傾向にあると指摘します。
ここでこの発言に対する私の考えを明らかにしておきます。男女は全く異なるというよりも、人間として同じ部分が多いと言えますが、異なる部分も少なからず存在します。正確に言えば、同じ人間としての心性の他に、生物的ジェンダーに基づいて女性・男性としての心性が形成され、その心性に基づいて行動することで社会的ジェンダーが現れるということです。社会的ジェンダーは女性、男性の本質に根拠を持ち、本質から基礎を提供されます。
この発言に対する支持が根強いのは、男女の心性の差により絶えず根拠が提供されるからです。
図表16の調査には根本的な問題があります。設問の形式が一般的な社会通念に対する賛否を問うものにすぎず、被調査者の心性を明らかにするものとはなっていません。社会一般の人が考えている女性・男性に関する事実と女性・男性に関してこうあるべきだという考え方に対して賛成か否かを問うているに過ぎないのです。
ですから、

冒険心やロマンは、男の究極のよりどころである
家庭の細々とした管理は、女性でなくては、と思う
男性の性欲は、概して女性に比べて強い


などの質問はそれぞれ

冒険心やロマンは、私の究極のよりどころである
私は家庭の細々とした管理が得意である
私の性欲は異性に比べて強い

というような形式に変更して、男性と女性同数に聞いて、その結果から違いを判断すべきものです。


☆現代心理学における性差研究

図表15の調査では、初め男性は男らしく女性は女らしいという結果が得られず、設問に修正を加えることにより、男性は男らしく女性は女らしいという結果が得られたそうです。私がこの本の情報だけで判断した問題点を述べます。図表16の女性性スケールは良い性格だとされていることを数多く上げています。男性も良い性格だということを望むので、そういった女性性スケールに高得点を与えることになります。それから、心性の違いを明らかにするには本人に問うだけでは不十分だという面があります。ある心性を有していても自分では意識されないことがあるからです。ある場面を設定したときに実際にどのように行為するか観察することも必要です。
著者は「しかしそのようにして見出された相違も、数値の相違という相対的なものにすぎない」とくさします。しかし、本質が違っていてもこうした調査では数値としか現れようがありません。そして、その数値の解釈を通じて心性の違いが分かります。
著者は「心理学研究において見出されたその他の性差に関する研究結果」(317)として「湯川隆子及び伊藤裕子の適切なレビュー論文がある」(p317)と推奨します。著者は著者に都合がよい結果だけをあげて内容を説明していません。フェミニストの著者が推奨する女性二人の論文ですから、方法と解釈において逆ジェンダー・バイアスがかかっているのではと疑われます。


☆なぜ社会成員はジェンダーを見出すのか

著者は「私たちは、たとえ最先端の脳科学を利用したとしても、心を直接に把握することはできない。」(p318)と指摘します。心の座は脳にあります。脳科学が進歩した今では、やはり外部からの刺激と関連して意味を持つものですが、脳の状態を機械により直接測定できるようになっています。内省という方法もあります。そして、私の第一哲学は人間精神の構造の合理的モデルを提供しています。


☆日常知としてのジェンダー知とジェンダー秩序

著者は「日常知としてのジェンダーは、男性・女性自身の性格を示すもの」(p319)ではないと述べます。
こういった日常知が有効なのは知識として正しいからです。単に社会がジェンダーを前提としているだけではなく、個人に性格としてのジェンダーがあるのです。ジェンダーの事実に関する知識は知性に内面化・構造化され、ジェンダーの規範に関する意識は感性に内面化・構造化されるのです。だからこそ、個人はその性格に適合的なジェンダーに基づく社会に従い、社会は個人にジェンダー秩序に従うことを要求しうるのです。
ジェンダー知とジェンダー秩序が重なり合うのは当然でしょう。


★ジェンダー・ハビトゥス

☆異性獲得ゲーム

著者は「ジェンダー・ハビトゥスの獲得も、そのハビトゥスを獲得することを実践上有利あるいは有効とする場においてなされると考えられる。」(p325)と指摘します。知識が実践に利用されるのは当然なことです。そして、有利・有効のみならず、人間の本性に動かされてという面があるのです。ジェンダー・ハビトゥスは男性・女性の本質に適合的であるがゆえに、進んで獲得され、実践上効果を発揮するのです。
著者は「ジェンダー・ハビトゥスは、ほとんどの社会成員が配偶者獲得を本気には考えない幼児期から児童期において既に、獲得されはじめる。また配偶者を獲得した後においても、ジェンダー・ハビトゥスを維持し続ける。」(p326)と指摘します。これも原則として一生性的存在である人間の男性・女性の本性に適合的だから、配偶者獲得を競う時期以外でもそのようなジェンダー・ハビトゥスを獲得し維持し続けるのです。
著者は「社会的地位の上昇や経済的利益を、ゲームの利益として見込んでいるわけではないのである。それにもかかわらず、思春期から青年期における異性獲得ゲームは、しばしば白熱した様相をおびる」(p326)と指摘し、その原因として「異性の友達や恋人がいないということが、同性同輩集団における地位の低下を生み出すようになる。これらの同性同輩集団における地位や影響力こそ」(p327)が「主要な利益である場合が多い」原因だとします。著者は大きな原因を故意に軽視しています。この年代で異性獲得ゲームが白熱する原因は、種族維持本能に基づく異性への憧れや興味であることが若者の大部分に言えることです。これに比べれば同性同輩集団における地位や影響力などは小さなものでしょう。それに特定の相手を故意に持たないことによって異性の崇拝者を従えることで、同性間で影響力を得ることもあります。異性を遠ざける同盟を結ぶことで同性の結束を固めることもあります。


☆同性同輩集団の意義

「なぜ男女は、同性同輩集団を所属準拠集団あるいは比較準拠集団として採用する傾向が強いのだろうか。」(p328)と著者は考え、その原因として「何が価値あることなのかという評価基準そのものが、男性版と女性版の二つ形成されている」(p328)ことをあげます。確かに、男性と女性が存在し、その本質に適合したジェンダーがあることが根本原因です。それに加えて、同性同輩だと成長の程度が同じで興味が同じになることが多いこと、異性を意識すること無しに気楽に遊べることなどが上げられます。
著者は「ジェンダー・ハビトゥスの獲得に向かう社会成員が具体的に見込んでいる利益は、異性獲得に限定されているわけではない。」(p330)と述べます。しかし、種族維持本能に基づく動機が大部分です。異性獲得ゲームが行われなければ、異性のカップルが生まれなければ、種族の保存はできないのです。


☆身体と外見の相違

著者は「性別によって、異なる服装・化粧・髪型などをすることが定められているだけでなく、社会成員が自分の外見を、他者から見て性別がはっきり分かるように整えることを、規範として課しているのである。」(p331)と指摘します。しかし著者の言う規範は、男女の見分けがつかない格好をしていても誰もとがめる人がいないように、強制力のないものであり、それに従っていると快適であることが多いというものにすぎません。そして、快適なのは多くの男性と多くの女性の美意識に一般的に適合的に形成されているとともに、自らにアイデンティティーを与え、帰属感と安心感を与えるからです。服装・外見に関する好みの違いの基礎には男女の心的傾向の違いがあるのです。


☆様々な身体技法

ここで著者は「ジェンダー・ハビトゥスは、何が感じよいふるまいであるのかについての男女別の感覚を予め私たちの身体に刻みこんでいる。」(p332)と述べます。また、以前には、「こうして形成された自分の理想像は、美しい-醜い 好き-嫌い 感じがいい-感じが悪い 格好いい-格好悪いなどの審美的な感覚として、私たちの知覚の内部に刻み込まれる。」(p330)とも述べています。著者はここで本質を述べています。このように知性・感性に心性は構造化されているのです。
著者は「このような家事能力、すなわち行うべき家事項目を自ら知覚でき、優先順位をつけて複数の活動を順次だてられる能力は、経験によって獲得されるものである。経験によって獲得された知覚評価図式が身体動作を導き、そうした身体動作の積み重ねがより明敏な知覚評価図式を形成されるのだ。」(p334)と指摘します。確かに、経験の積み重ねにより能力が磨かれること、男性でも適性があればこのような能力を身につけることができることは否定できません。しかし、女性が一般的に言ってこのような能力を身につけやすいことは事実です。その基礎には女性が細々としたものに目を向ける心性があること、他者に対する配慮をする心性があるので他者の幸福のためにこういった能力を身につける動機が生まれやすいということがあるのです。


☆実践と他者評価

著者は獲得したジェンダー・ハビトゥスに基づいて「同性により厳しい評価をするという傾向が生じることになる。たとえば、長年母親業を行ってきた女性の方が、男性よりも、若い母親たちの子育てのしかたについてより厳しく評価することが多い。」(p335)と指摘します。しかし、これは専門化による面があります。そのことについて熟練して専門的な能力を身につけた者は、普通の人がその専門分野で行うことの欠点を簡単に見抜くことができます。その見抜いた欠点を専門的立場から指摘して是正しないではいられないのです。


☆女性と感情

著者は「女性は、ジェンダー・ハビトゥスによって、他者の感情により気づくようになる。このことは、女性は感情的であるという日常知を産出する」(p337)と指摘します。しかし、女性が感情的であるという日常知が生まれるのには次のような基礎があります。男性は構造化された心性に基づいて合理的・論理的思考を貫いて行動しようとします。これに対し、女性は、女性の心性から感性・イメージに基づいて直感的に行動しようとします。このため、感情に左右されやすく論理よりも感情を優先させてしまうことがあるのです。また、女性は他者に配慮するため、他者の感情が良く分かり、その分かった感情に対して感情で対応してしまうことが多いのです。
著者は「以上、女らしさ 男らしさなどの性別的特徴は、性別二元論と異性獲得ゲームが構造化されている社会においては、社会成員自身の自然な性向であるかのように、産出されていくことを論じた。」(p338)と述べます。しかし、ずっと私が論じてきたとおり、事実的な基礎があるから自然な傾向として産出されるのです。


★ジェンダー知の流通

☆表現の流通における男女の不均衡

著者は「近代に至るまで、多くの女性は、厳しい家事労働と生産労働に従事することを余儀なくされ、読み書きすら習うことができないままであった。」(p339)と指摘します。しかし、近代に至るまでの事情は特に先進諸国では大きく変化していますし、開発途上国でも女性に対して読み書きの能力を身につけさせることに力を入れています。


☆近代科学というジェンダー知

男性も女性について客観的合理的に語ることができます。男性にとって女性は異性なので返って客観的な観察の対象として女性が自身では見えないことも見えるかもしれません。そして、私の考えは著者の言う19世紀近代科学、すなわち「性差の科学」とは異なり、確かな根拠を持ちます。性差の科学は女性の本質ではない肉体の特徴から無理に性差を導き出します。しかし、私の考えは男性、女性の本質に基づいて、心性の差を導き出すのです。
著者は「一九世紀、経済的自立のために働く女性は、自然にあらがうだけだと科学者は記し、ダーウィンの進化論をひいて、女性に参政権を与えるのは、進化上の退化だという主張はあとをたちませんでした。医師と教育者は異口同音に、若い女性が長時間勉強したりとすると、生殖器系がひどいダメージを受け、気が狂って葬られかねないとおどしたものです。」(p343)という考えを指摘します。また、著者は「女性の身体的劣等性の原因になっているのは、スペルマ(精子)の不在であり、その点で女性は去勢された宦官に似ている 女性はまたその身体的脆弱さゆえに子供に近い」(p344〜345)という考えを指摘します。もちろん、私はこれらの考え方を完全に否定します。
著者は「ラセットは、一八二○年頃から盛んになった骨相学において、女性と男性の精神構造には生来の相違があるという知見が、頭蓋骨の特定の部分の突出や脳の解剖によって導き出されたということを述べている。」(p345)と指摘します。私は、脳の外見から精神構造の本質的な差異を見出すことも、人間の身体的外見の相違から精神構造の本質的な相違を類推することも否定します。私の考えはあくまでも女性、男性の本質からそれぞれの心性の差が導き出されるというものです。その私の考えでは、ラセットの骨相学のような「女性の知能は不活発で、また思考力も脆弱である。女性の理性が及ぶのは目に見える範囲の世界にとどまる。また女性は幻想の世界へと、すばらしく大胆な遠出をすることもない」(p345)という考えは導かれません。女性の知能は活発で、思考力も強靱であり、女性の理性は目に見えない遠くに及び、幻想の世界へと素晴らしく大胆な遠出をすることができると考えます。ただ、女性と男性では知性と感性が異なる方法を用いて働く一般的傾向があると考えるのです。生殖器という本質から心性の違いを導き出すのです。
著者は「解剖学、動物学、医学などから生まれた自然人類学は、誕生の当初から医学的分析を偏重し、肉体の構造による人種の分類を強調した」(p346)と述べ、自然人類学の研究によると、「女性の脳は男性の脳よりも小さく軽いということがほぼ言えたのである。」(p347)と指摘します。もちろん、私はこれにより男性の方が一般的に言って女性よりも知能が高いことが導き出されるとは考えません。私の考えは「女性よりも男性の方が優秀であるという性差理論」(p347)ではありません。女性と男性には本質から導き出される特性の違いがありますが、それは優劣をもたらすものではないと考えます。
著者は「進化心理学は、個体発生と系統発生という観点から、人種を異なる進化段階にあるものとして位置づけた。そこでは、黒人やモンゴロイドは、女性と同じく、精神の段階において子どもの段階で発達がとまってしまった人間として位置づけられた。」(p348)と指摘します。もちろん、私は黒人もモンゴロイドも女性も白人男性と同じ段階にあると考えます。皮膚の色の違いは、人種間に本質的な差異を何らもたらしません。私は人種差別を完全に否定します。ただ、男性と女性の間には、本質から生じる差異がありますが、それは男性と女性の間に優劣をもたらすものではないと考えます。
男女間に優劣を考える性差の科学が消滅していったのは、女性運動とともに真理と客観性合理性を求める科学の自浄作用が大きかったと考えます。


★科学的言説が社会成員に与える影響

☆人間や社会に関する科学的言説がはらむパラドックス

著者は「社会科学が社会や社会成員との間で相互作用する」(p355)ことを指摘します。確かに、社会科学は社会や社会成員を研究対象として影響を受けるとともに、社会や社会成員がもたらす社会現象を構築し破壊します。ここで、私の社会科学と社会との間の関係に対する考え方を述べておきます。まず、社会科学は自己検証を行って客観性、合理性を確保できます。それは、理論相互の整合性の検証や、理論内部の論理性の検証、実験などによる理論の有効性の検証を行って確保できます。そして、ある科学理論が現実に対して力を持つのは、本質や真理に一致しているからであることが忘れられてはなりません。これに対し、イデオロギーが力を持つのは、虚構や疑似理論に支えられた説得性が重要な役割を果たしています。そして、本質や真理に一致する科学は、本質や真理に一致する社会世界や言説を強化しますが、本質や真理を歪めたり隠蔽したりする社会世界や言説に対しては破壊的に働きます。
著者は「男女二元論による社会の再生産を崩すためには、このつなぎ目であるところの性差についての科学的言説を崩す必要があったのである。ジェンダーという概念は、この最も堅牢に溶接されたつなぎ目を、ばらばらに解体してしまう効果を持っていた。だから、この概念は革命的であったのだ。」(p358)と指摘します。私はここまで、著者たちの使用する「ジェンダー」のイデオロギー性を明らかにしてきました。ジェンダーが力を持ったのは、本質を隠蔽するイデオロギーの説得性によるものです。性差の科学以前にもジェンダーは存在しました。性差の科学はそれを理論により強化しようとしたものです。性差の科学以前から本質によりジェンダーに基礎が供給され、それは今も続いているのです。


☆社会問題の構築という回路

主婦を肯定し、女性が家事・育児に責任を持つべき以上、「母親であれば子どものためにはどんな努力も厭わないものだ」(p360)という母親像は理想像として維持すべきです。この母親像が生み出す「子どもの病気を直すために懸命に努力する母親」(p360〜361)や「なによりも子どもを自分で育てることに喜びを感じる母親」(p361)などの物語は良い主張です。

「母性愛神話の罠」参照

「子どもが病気なのに治療を受けさせられない母親」は事実として問題です。「就業しなければならないことによって子どもを自分で育てられない母親」は今では社会問題として構築する動きはありません。
「病気の子どもを抱えた母親は、子どもの病気を直すための政策を社会に要求できる権利を得るが、逆に、母親自身子どものためにどんなことでもすべき義務を負うことになる。」(p361)と指摘します。しかし、病気の子どもを抱えた母親が得るものは、物語に一致しているので支援してもらえるということであり、それに対して、病気の子どもを直す努力が求められるだけであり、どんなことでもすることが求められてはいません。
「就労する母親は、託児所などを要求する権利をえるが、その権利とはうらはらに、母親の就労が経済的理由など余儀ないものであることを証明する義務を負う。」(p361)と指摘します。しかし、就労する母親は、子どものことを考えて便宜が図られるだけです。余儀ない理由が必要とされるのは他の働く母親との関係です。定員が不足しているので、その優先者を決めるためです。


☆第一線職員

著者は「家庭責任を担うべき女性の不在(たとえば母親の就労など)や役割の不遂行(子どもの世話の放棄や放任、知識や家事能力の不足)などを、記録されるべき事項とするのである。」(p362)と指摘します。一九世紀の性差の科学は認められませんが、男女対等に基づくカテゴリー化は正当なものです。主婦が肯定される以上、家庭責任を担うべき女性が存在することが望ましく、その主婦が役割を果たすことが望まれる以上、このような事項は記録されるべきです。
著者は「離婚裁判においては、妻が家事責任を果たしていないとか、母親としての責任を果たしていないとか認定されることは妻に不利に作用する。」(p362)と指摘しますが、主婦は自分の役割を果たすべきである以上、不利に作用するのはしかたがないことでしょう。


☆教育

著者は「彼女たちは、女性を客体化する科学的言説に反発を感じざるをえない。」(p364)と指摘します。しかし、科学である以上、対象の客体化は避けられません。女性が女性に関して研究する場合も女性を客体化せざるをえません。しかし、男性が女性を客体化する場合は不注意から女性にとって不快な表現をしてしまうことも事実です。男性研究者は自戒すべきでしょう。女性も男性を客体化する研究が可能ですし、男性の女性研究におかしなところがあれば、科学の立場から客観的合理的に批判して行きましょう。


☆メディア

著者は三歳児神話を疑似科学的言説だと指摘しますが、この点に関しては

「母性愛神話の罠」参照。

フェミニズムもこの本に見られるような逆ジェンダー・バイアスに基づいた疑似科学的言説を提供しています。
著者は「二○世紀半ばにいたるまで、女性の心理的特性を、男性とはまったく異なるものとして定義していた。そこでは女性は妻となり母親となることによって自己実現するものと考えられていたので、母親であることに満足できない女性は、女性性を受容できない心理的な発達障害として、定義されることになったのである。」(p370)と述べます。私の考えでは、まったく異なるとは言いませんが、女性と男性には本質に基づく心性の違いが肯定されます。それが、妻となり母親となることの適性の基礎を与えます。ところが、フェミニズムはこの主婦の道を否定します。母親であることに満足できない女性、すなわちキャリア・ウーマンを肯定するにとどまらず、妻となり母親となることで満足する女性を否定します。恐るべきイデオロギーと言えるでしょう。

◆第8章 ジェンダーと性支配

★フラクタル図形としてのジェンダー

☆循環論

著者は「最初に措定したジェンダー秩序が、最後に論じたジェンダー知の生産と流通に関する議論によって再度説明されるような循環論になっている」(p373)ことを認め、「ジェンダーという社会現象(それ以外の社会的現象についても基本的に同じ認識を持っているのだが)自体が循環的に形成されていると考えている」(p374)からだとします。社会構築主義をとり本質ないし根拠を無視するなら、循環的に説明するしかないでしょう。そして、循環しているなら、その連鎖の一カ所を断ち切れば、循環は止まるはずです。ジェンダーという「革命的」概念もジェンダー知に対して打ち込まれました。にもかかわらず、循環を断ち切れないか、断ち切ったかに見えても再生してしまうのは、本質ないし根拠から絶えず基礎が供給されているからです。


☆外と内にある同じ構造

著者は女性がなぜ育児専業者として夫ではなく自分を選択するかという問いの答えとして、「多くの女性が、稼ぎ手としての将来性は男性の方が高いと予想している」(p375)ことと、「男性は仕事をしていない時自尊心を失いやすく、女性は自分で育児できない時に後悔や罪悪感に苛まれる」(p375)ことを上げます。この他に重大な理由があります。それは生物文化的ジェンダーに基づいて女性が育児に適した心性を、それは母性に適した心性でもありますが、有し、育児を担うに相応しい文化を生きていることです。そして、女性が自分で育児できない時に後悔や罪悪感に苛まれるのは、この心性が関係しています。自分が産んだことで新生児に対して責任感を持ち、新生児に対して何かしてやりたいと思うからです。そして、何かしてやるには適当な手段として乳房を有します。これに対して男性は母子を守ることで存在意義を見出します。具体的には母子の生存と安楽を確保するために、経済的条件を良くしようとします。男性が仕事をしていないと自尊心を失いやすいのは、女性のように子どもを産むことで自分の存在意義を確実なものとすることはできず、能力により自分の存在意義を明らかにする道を選ぶことになるからです。仕事ができることは確実な能力の証明です。
著者は循環を「私たちの主観性によって認識し、自由に行為することができるのだ。けれども、私たちは、それらを私たちの行為の条件とせざるをえない。」(p377)と指摘します。確かに、行為するときに与えられる環境としての条件について述べているならそのとおりです。しかし、行為の時に従わなければならない条件について述べているなら、正確ではありません。人間は主体的決断によって環境に従うことも従わないこともできます。フェミニズムが行ったように循環に意義を唱えることもできます。にもかかわらず、循環が止まらないのは循環が本質ないし根拠から絶えず基礎が供給されているからです。


☆性差と性差についての認識

著者は「女性は仕事の上のトラブルを処理する能力がないなどとよく言われる」(p377)と述べます。このような一般的な言説が生じることにも基礎があります。女性の心性は一般的に言って平和を好みます。しかし、トラブルを解決するには争いの中に進んで入って行くことが求められます。これに対して、女性は及び腰になってしまうことが多いのです。
著者は「職場における人事考課で女性が低く評価されてしまうのも、そもそも女性には大きな仕事は与えられていないからそうなる側面もあるのだ。」と指摘します。大きな仕事は危険でトラブルを生むことがある大変な仕事です。ですから、女性の心性を考えて他の補助的な仕事を回されるということもあります。しかし、補助的な仕事でもその下支えがなければ仕事が成り立たないのですから、その重要性がもっと認識されるべきでしょう。


☆相互に映し合うジェンダー体制

著者は「女性が職業を持ち続けようとすれば、女性は、職場だけではなく、家族や学校や病院や地域社会などとも闘わなくてはならなくなる」(p379)と指摘します。未だに、そういう側面もあるのでしょう。しかし、今の時代はフェミニズムが主婦を攻撃し、母として妻として自己実現を図る道を弁護しなければならない時代なのです。


☆フラクタル図形としてのジェンダー

著者はジェンダーをフラクタル図形になぞらえます。フラクタル図形と言えるまでにジェンダーが浸透しているのは、性差の本質から絶えず基礎が供給され、それに適合的に社会が形成されてきたからです。


★性支配

著者は「権力とは、自己が目的とする事態の達成に向けて、他者の実践を積極的に動員する力のことである」と定義し、支配については「相互に権力行使実践を行う社会的相互行為においても、両者の権力行使の達成の度合いが著しく異なる場合がある。社会的相互行為水準における支配とは、そうした社会関係のことである。」(p383)とします。著者が言う社会的相互行為水準における支配であっても、直ちに不当性が認められないのは以前に検討したとおりです。その社会的行為水準の実質に立ち返って不当性を検討する必要があるのです。私はこれまでその実質を検討してきました。


☆性支配の記述が困難になってきた理由

「なぜこうした権力の定義を行うのか。」(p384)。著者の権力と支配の定義は極めて一般的抽象的であり、そこから不当性を導き出すことはできません。その定義は従来の定義とは異質です。にもかかわらず、それを「権力」と「支配」として押し通そうというのは、従来の定義が強制という概念を通して持っていた不当性のイメージを著者の定義に与えるためだと考えられます。
自発的に行われる社会的行為に対しては強制が見出されないが故に権力や支配と呼ばないのが普通です。しかし、著者は不当なイメージを持つ権力や支配と言いたいがために自分独自の概念を押し通すのです。


☆ジェンダー秩序=性支配

著者は「男性に対して自分の話を聞いてもらえない 言ってもまともにとりあってもらえない はっきりいやだと言って止めるよう頼んでいるのに、無視される 自分がその場にいるのにいないかのように扱われるといったことを感じている女性は、非常に多いのだ。」(p388)と述べます。しかし、同じ様なことを女性に対して感じる男性も多いでしょう。そして、男性はメンツに関わるのでそのようなことを話さないことが多いでしょう。また、女性に非常に多いというなら、それは女性が通常優遇されていて、また優遇されるべきだという規範があるので、優遇されないときに強い不満を感じるという面もあるのではないでしょうか。
著者は「日本の女性言葉は、命令形を持たない。」(p388)と指摘します。しかし、「〜しなさいよ。」と言ったり、単に丁寧に「〜しなさい」と言ったりするのは、女性として不自然な言葉ではないと感じるのですが。


☆家父長制とは何か

著者は「確かにジェンダー秩序は、そのパターンを誰もが容易に理解しうるという意味においては規則である。しかし、社会成員がその規則に従わないことも充分できる規則として位置づけられている。」(p392)と認めます。規則に従わないことが十分にできる規則には流行や、男女に関わらない習慣、エチケットなどもあります。これらのうち男女のカテゴリーに関わる習慣だけを権力・支配というのは、それが不当だから不当だと言っているにすぎません。そしてその不当性を支えているのは男女平等のフェミニズムのイデオロギーです。フェミニズムのイデオロギーは男女の物質が不平等であり、本質において差異があるのに、その本質を隠蔽し、その本質を消滅させる道を選ぶものなのです。

◆第9章 再生産・変動・フェミニズム

★再生産と変動

著者は「私は性支配は変わらないとは全く思っていない。ただそんなに簡単に変わるものではないと思っている。」(p395)と認めます。著者の言う性支配が簡単に変わらないと著者でさえ認めざるを得ないのは、ジェンダーがその本質・根拠から絶えず根拠を供給されているからなのです。
著者は「社会成員がこれまでとは全く別のパターンの社会的実践を行うことも、充分に可能である。」(p395)と指摘します。確かに、本質や根拠に反した社会的実践を行うことも可能です。しかし、それは本質や根拠に反しているがゆえに快適ではなく、本質や根拠を摩耗・消滅させる道を意味するのです。そして、そのような主体的決断が可能なのも主体性をもたらす本質が存在すればこそなのです。


☆変わった/変わらない

著者は「男の子にセックスしたいと言われると、応じないわけにはいかないように感じちゃって、避妊をちゃんとしてくれっていうこともできなくて、そのままイエスって言っちゃう。結局妊娠しておろすとか……、そういうこと本当に多く聞くんです。」ということを変わらない例として上げているが何かの間違いでしょう。昔の方が女の子は道徳観念が高く、自分の身を大事にしていました。性の開放はフェミニズムが押し進めました。女性を縛るものとして道徳を追放し、快楽だけの性を押し進めたのですから。


☆再生産と変動

著者は「社会には階級・エスニシティ・ジェンダー・職業・障害者など様々なカテゴリー装置がある。」(p404)と述べ、「差別問題にはこうした社会的カテゴリーを再生産する仕組みがつきまとっていることが多いということも、一因であろうと思われる。」(p404)と指摘します。しかし、カテゴリーがなければ権利・義務をそれに相応しい人々に配分することができません。権利・義務を相応しい者に配分できないことは正義に反します。問題はカテゴリーそのものではなく、カテゴリーとそれに与えられる権利・義務の立て方です。あるカテゴリーの人々の本質に適した権利・義務が与えられているか、そのカテゴリーの人々に不当な結果が帰属しないかなどのことが実質的に検討されなければなりません。
著者は「性別分業と私が呼んだものは、単に抽象的パターンに過ぎず、それには多様なバリエーションがありうる。」(p406)と述べ、性別分業は「単に夫婦において女がより家事・育児により重みを置くというパターンであるにすぎない。」(p407)と指摘します。多様なバリエーションに共通するパターンが存在するのは、その根拠・実質があるからです。


★フェミニズム言説成立後におけるジェンダーの再生産

著者は「現代社会においてフェミニズムに関心を持つ多くの人々が、若い女性たちのなかにフェミニズム離れ フェミニズム嫌いが蔓延していることを指摘している。」(p408)と述べます。このような傾向は、ジェンダーが本質に基づいて形成されて本質に適合的であるが故に、女性にとって心地良いものであり、その心地良いジェンダーを消滅させようとするフェミニズムが嫌われる面があります。
そして、ジェンダーに根拠があり、再生産されるからこそ、過度な男女のカテゴリー化に基づく性差別発生の危険性があり、その性差別の排除が必要です。その役割を女性運動は担うことができます。しかし、それは主婦を否定し、ジェンダーを否定し、女性性の消滅をもたらすものであってはならず、女性性を肯定し主婦を守り適度なジェンダーを守るものでなければなりません。

前のページへのボタン 次のページへのボタン
リンク集へのボタン ゲストブックへのボタンよくある質問へのボタンメールマガジンへのボタン
トップページへのボタン 救世国民同盟の意見へのボタン あなた方への呼びかけへのボタン 救世国民同盟の政策へのボタン 救世主は誰かへのボタン 救世国民同盟からのお知らせへのボタン